2026年3月。
テレビをつけたのは、コーヒーを淹れながらの習慣だった。
画面の中で、何かが燃えていた。
アナウンサーが言った。「先月二十八日に始まったアメリカ・イスラエル軍によるイラン攻撃は一週間を超え、核施設に加え文化遺産への被害も——」
エマはコーヒーカップを置いた。
置いた音がしたのか、しなかったのか、わからなかった。
画面の中で、石柱が崩れていた。二千五百年前に建てられた石が、粉になっていた。
見たことがある。
夢ではない。記憶でもない。もっと古い場所にある、何か。
エマは聖書を取りに行った。自分でも、なぜそうしたのかわからないまま。
黙示録。第十六章十二節。
「第六の者が、その鉢を大河ユーフラテスに傾けた。すると、その水は……枯れてしまった」
読んだことは何度もあった。
でも今日は、文字が違う重さを持っていた。
馬鹿げている、と思った。
仕事に遅れる、と思った。
それでも、しばらく動けなかった。
イエスを信じていた。
でもイエスが何に気づいたのかは、考えたことがなかった。
仕事には、結局遅刻した。
電車の中でスマートフォンを開いた。ニュースアプリ。イラン。攻撃。遺跡。核施設。ハーメネイー死亡。
いつもならスクロールして終わる。
できなかった。
記事を読んだ。別の記事を読んだ。また別の記事を読んだ。気づいたら乗り過ごしていた。
ユーフラテス川の水位が過去最低を更新。
小さな記事だった。イランの話とは別のページにあった。でもエマの指が止まった。
スクリーンショットを撮った。
なぜ撮ったのか、自分でもわからなかった。
その夜、聖書をもう一度開いた。
黙示録だけではなかった。創世記。ダニエル書。エゼキエル書。
読みながら、付箋を貼った。
気づいたら床に付箋が散らばっていた。
時計を見た。午前二時だった。
馬鹿げている、とまた思った。
でも付箋を片付けられなかった。
翌朝。
いつもの道を歩いていた。
頭の中はまだ昨夜の続きだった。ユーフラテス。バビロン。第六の鉢。遺跡の石柱。
だから最初は、気づかなかった。
足が、止まっていた。
いつも通り過ぎるだけの、小さな原っぱ。
月が、山の向こうに沈んだ直後だった。
エマは知らなかった。
でも、体は知っていた。
白があった。ピンクがあった。朝日の中で、朝露が光っていた。
エマはスマートフォンを取り出そうとした。
インスタに上げようと思った。
手が、動かなかった。
ただ、立っていた。
頭の中が、静かになった。
昨夜からずっと回り続けていた何かが、止まった。
そしてその静けさの中に、別の何かが、流れ込んできた。
映像ではなかった。言葉でもなかった。
強いて言うなら、確信だった。
これは偶然じゃない。
戦争の話でもない。
もっと長い、もっと巨大な、何かの一部だ。
誰かが、計画している。
いや、違う。
誰かが、完成させようとしている。
朝露が一粒、草の先から落ちた。
エマはまだ、動けなかった。