翌朝、透は会社に電話した。
「すみません、今日休みます」
理由は言えなかった。言える理由がなかった。知らない番号からのメッセージに従って山へ行く、などと言えば、確実に心配される。
木箱の紙を内ポケットに入れた。折らないように、丁寧に。
なぜそうするのか、自分でもわからなかった。ただ、折ってはいけない気がした。
奥多摩駅に着いたのは昼過ぎだった。
観光客が数人、ハイキングの装備で歩いていた。透はジーンズにスニーカーという格好で、明らかに場違いだった。
メッセージにはそれ以上の指示がなかった。
どこへ行けばいい。
その瞬間、足が動いた。
夢の中と同じだった。考えるより先に、体が方向を知っていた。観光客が消えた。舗装道路が消えた。気づけば獣道を歩いていた。
三十分後、透は小さな社の前に立っていた。
地図にない場所だった。
「来たか」
声がした。
社の陰から、老人が出てきた。七十代か、八十代か、判断がつかない。背筋が異様なほど真っ直ぐだった。目が、若かった。
「山路の血は、まだ生きていた」
老人は透を見て、そう言った。品定めするような目ではなかった。安堵の目だった。
「あなたは誰ですか」
「サンカだよ」
透には、その言葉の意味がわからなかった。
「山に生きる者だ。戸籍を持たない。地図に載らない。ずっとそうやって生きてきた」
老人は社の扉を開けた。中に、小さな石が置いてあった。透の木箱の紙と、同じ文様が刻まれていた。
「お前の祖母から預かっていた。お前が来る日まで」
「なぜ私が来ると」
「来ると言われていたから」
「誰に」
老人は空を見上げた。
「上から」
透は思わず空を見た。青い空があった。雲があった。それだけだった。
「上というのは」透は慎重に言葉を選んだ。「比喩ですか」
「違う」
老人は透の目を真っ直ぐ見た。
「文字通り、上だ。地球の外だ」
透は笑おうとした。
また、笑えなかった。
祖母の紙が、内ポケットの中で、熱を持っていた。
「エアという名前を聞いたことがあるか」
老人が言った。
透は首を振った。
「今夜、聞くことになる」
老人は社の中から、古い短波ラジオを取り出した。時代錯誤な機械だった。ノイズが走っていた。
「これで来るのか」透は言った。
「これが一番傍受されない」
老人はダイヤルを回した。ノイズが変わった。周波数が合わさっていくような音がした。
そして。
透。聞こえるか。
夢の中の声と、同じだった。
透の足から、力が抜けた。
老人が静かに支えた。
怖がらなくていい。私はお前の敵ではない。ただ、話さなければならないことがある。地球に残された時間のことを。お前の血のことを。そして、誰も知らない本当の歴史のことを。
山の中が、静まり返っていた。
風も止まっていた。
まるで、世界がこの瞬間を待っていたように。
まず一つだけ聞く。
声が続いた。
お前は、2012年に世界が変わったと感じなかったか。
透は、息を呑んだ。
感じていた。
うまく言葉にできなかったが、あの年から、何かが違った。ニュースの質が変わった。人々の目が変わった。自分の夢が始まったのも、あの年だった。
「感じていました」透は、ラジオに向かって言った。
そうだ。あの日、一つの時代が終わった。支配者たちのリーダーが、消えた日だ。
老人が、透の肩に手を置いた。
「ここからが、本当の話だ」
山の奥で、何かが鳴いた。
鳥ではなかった。