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第四章

杉の根

できない、と思った。

その感情が、どこから来たのか、エレズにはわからなかった。

三十年間、できないと思ったことは、なかった。

命令があれば、動いた。

計画書にあれば、実行した。

それがエレズ・ベングリオンという人間だった。


でも今夜は違った。

透という日本人と、その女性の顔が、頭から離れなかった。

顔は知らなかった。

でも、インスタグラムの写真の中の焚き火と、二つのカップが、離れなかった。


書斎に入った。

カバラの文献を開いた。

杉のページを開いた。

「エレズは天と地を繋ぐ。根は地に、梢(こずえ)は天に。その間に立つ者は、両方を見ることができる」

根は地に。

透とその女性は、地に根を張っていた。

ユーフラテスのほとりの村まで行った。

老人に会った。

記号の意味を探した。

地面を這うように、真実を探していた。


エレズは何をしていたのか。

空から見下ろしていた。

計画の内側から、座標を処理していた。

地上の人間を、数字として見ていた。


根がなかった。

三十年間、根を張らなかった。

計画書が根だと思っていた。

でも計画書は、地面ではなかった。


翌朝、執務室に来た。

画面を開いた。

透の監視ファイルを開いた。

その女性の監視ファイルを開いた。

削除しようとした。

できなかった。

代わりに、ラベルを変えた。

*「要注意」から、「保留」*へ。

小さな抵抗だった。

誰にも気づかれない抵抗だった。

でも、エレズには大きかった。


昼過ぎ、ヨナタンに呼ばれた。

「日本の件、進捗は」

「調査中です」

「どこまでわかった」

「二人います。男と女。男は山路透。ブログを書いていた。女はまだ名前が不明です」

「接触の証拠は」

「奥多摩という場所で会っています。写真があります」

「危険度は」

エレズは少し間を置いた。

「低いと思います」

嘘だった。

初めて、上司に嘘をついた。

「そうか。引き続き監視しろ」

「わかりました」


部屋を出た。

廊下を歩きながら、手が少し震えていた。

三十年間、手が震えたことはなかった。


夜、家に帰った。

ミリアムが夕食を作っていた。

エレズはテーブルに座った。

ミリアムの背中を見た。

三十年間の背中だった。

「ミリアム」

「なに」

「俺は、正しいことをしてきたと思うか」

ミリアムは手を止めた。

振り返った。

エレズを見た。

長い間、見た。

「あなたは、正しいと思ってきたんでしょう」

「そうだ」

「それは、正しいこととは違うの?」

エレズは答えられなかった。

ミリアムはまた前を向いた。

「夕食、できるわよ」


食後、書斎に入った。

聖書を開いた。

黙示録ではなかった。

創世記だった。

最初のページだった。

「初めに、神は天と地を創造された」

読んだことは何千回もあった。

でも今夜は、最初の一行で止まった。

天と地。

天だけではなかった。

地も、創られていた。

同じ神が、創っていた。


天の計画だけが、神の意志ではなかった。

地の上を歩く人間も、神が創っていた。

透も。

その女性も。

ユーフラテスのほとりの村人も。

老人も。

みんな、同じ神が創っていた。


計画書は、その人たちを座標として扱っていた。

神が創ったものを、消す計画だった。

それが、神の意志なのか。


エレズは聖書を閉じた。

窓を開けた。

テルアビブの夜風が入ってきた。

遠くに、地中海が見えた。

暗い海だった。

波の音が、かすかに聞こえた。


決めた。

何を決めたのか、言葉にはならなかった。

でも、決まった。

体が、知っていた。


書斎の机の引き出しを開けた。

古い手帳を取り出した。

ページをめくった。

一つの名前を探した。

見つけた。

かつての同僚だった。

今は、組織の外にいる人間だった。

信頼できる人間だった。

唯一、今も信頼できると思える人間だった。


スマートフォンを取り出した。

番号を打ち込んだ。

呼び出し音が鳴った。

三回で出た。

「エレズか」

「久しぶりだ」

「何年ぶりだ」

「五年だ」

「どうした」

エレズは少し黙った。

窓の外の海を見た。

暗い海だった。

でも、確かにそこにあった。

「話したいことがある」

「聞く」

「日本に行く必要があるかもしれない」

電話の向こうで、沈黙があった。

短い沈黙だった。

「わかった」

それだけだった。

それで、十分だった。