海まで、車で一時間。
九十九里浜は、どこまでも続いている。海の中、砂浜の中、生き物たちの息吹がある。人は多くない。でも、そこにいる人は、みな同じ理由でそこにいる。サーファー。乗馬する人。散歩する人。ただ楽しむためだけに、ここにいる。裸足で歩くと、足の裏から何かが入れ替わる感じがする。何年も前から知っている感覚なのに、言葉にしたことはなかった。
ここ最近、車を運転していない。
下半身がしびれている。頭の中に、薄い膜が一枚かかったような感じがずっと続いている。50メートル歩くと、視界が白くなり、立っていられなくなる。
だが、変わらず海は、そこにある。
潮の満ち引きも、生き物たちの息吹も、波に乗る人たちも、私が海に行けなくなったことなど知らない。今日も海水は満ちて、引いて、誰かが波に乗っている。
それが、無性に嬉しい。
海はただ、そこにあり続けている。「私を待っていない」ところが、いい。
それでも、海に焦がれる日はある。
そういう日は、近くの原っぱへ行く。
田んぼに囲まれた土地。夏になると、草が伸びて、誰も刈らない。
そこに、裸足で寝転ぶ。
変な人だと思われているのかもしれないが、特に気にしたことはない。
草の匂いがする。地面の硬さと、湿り気が、背中から伝わってくる。空が見える。雲が流れている。
ここは海じゃない。波の音も聞こえない。
それでも、自然を感じることはできる。
土の中にも、息吹がある。虫の声がする。風が、稲穂を揺らす音がする。
九十九里浜の代わりにはならない。代わりを探しているわけでもない。
ただ、ここにも、確かに、自然がある。
ここに越してきたのは、何年か前のことだ。
都会から、里山へ。
理由はいくつかあった。仕事は、パソコンさえあればどこでもできる。それなら、自然に近い方がいい。それくらいの、軽い決断だったと思う。
越してきてから、気づいたことがある。
蚊に刺されたことが、一度もない。
田んぼの多い土地だから、カエルが多い。カエルが多いから、蚊が少ない。たったそれだけの理由らしい。
愛犬(チューバッカ)も、フィラリアにかかりにくい。
たまに都会へ帰省すると、たったの2泊3日で、20ヶ所くらい蚊に刺される。
釣り合っているのは、虫だけじゃない気がする。
横断歩道に立つと、車はすぐに停まってくれる。
都会では、いつまで待っても横断歩道を渡ることができなかったりする。
これは、運転マナーの差というより——ここに住む人たちの、心の余白の差なんじゃないかと、思う。
この土地の人たちは、何かに急かされている様子がない。
スーパーのレジでも、畑のあぜ道ですれ違うときでも、急いでいる人を見たことがない。
都会にいた頃の自分を思い出す。エレベーターの扉が閉まりかけると、ダッシュで駆け込んでいた。一分一秒を、いつも気にしていた。
ここでは、誰もダッシュなんかしない。
同じ時間が流れている。ただ、ここの人たちは、その時間を、自分のために使うことに、慣れている。
私の仕事は、パソコンの中にある。
朝、パソコンをひらく。気づけば、外が暗くなっている。そのあいだ、田んぼも、カエルも、海も、横断歩道で待ってくれる車も、私の知らないところで、ちゃんと存在し続けている。
私はいつか、パソコンの外に出て、土に触れる仕事をしたいと思っている。
いつ実現できるかは、わからない。
それでも、夢として、ここにある。
今日も、海には行けない。
代わりに、原っぱへ行く。裸足で、寝転ぶ。
雲が流れていく。風が、稲穂を揺らしている。虫の声がする。
ここは海じゃない。それでも、自然はある。
九十九里浜のことを思う。今日も、誰かが波に乗っている。サーファーも、乗馬する人も、散歩する人も、私のことなど知らないまま、ただ楽しんでいる。
それでいい。
私を待っていない海と、私を待っていない原っぱと、私を待っていない、この土地に流れる時間。
待っていてもらう必要は、ない。
ただ、そこにあってくれれば、それで十分だ。
いつか、また裸足で、九十九里浜を歩く日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
それは、誰にもわからない。
わからないまま、今日も、原っぱに寝転ぶ。
頭上を、雲が流れていく。
胸の奥が、疼く。
いや。違う。
私は、今すぐ海に行きたい。 絶対に行きたい。