山道に入ると、空気が変わった。
百合は窓を少し開けた。湿った土と、葉の匂いがした。
黒岩が迎えに来ていた。軽トラックだった。以前の、スーツ姿とは別人だった。でも笑い方は同じだった。
「遠かったでしょう。」
「全然。」
そこは、小さな集落だった。古い家が十数軒。畑があった。鶏がいた。
黒岩が案内してくれた。
「ここで自然農法をやってます。農薬も化学肥料も使わない。土が全部やってくれる。」
百合は土を見た。
黒くて、柔らかかった。
「土が全部やってくれる、って?」
「微生物とか、ミミズとか。見えないものが、ちゃんと循環してる。俺たちは邪魔しないだけ。」
百合は土を見たまま、少し考えた。
見えないものが、ちゃんと循環してる。
夕方、黒岩がイノシシの出る場所に連れて行ってくれた。
山の入り口だった。古い轍があった。深く、くっきりと。
「毎日ここを通るんですよ。」
百合はしゃがんで、轍を見た。
指で、端を触った。土が少し崩れた。
「怖くないんですかね、イノシシは。」
「何が?」
「毎日同じ道を通ること。」
黒岩は少し考えた。
「怖いって概念、ないんじゃないですかね。ただ、そこを通ることが自然だから、通ってる。」
百合は立ち上がった。
夕日が木々の間から差していた。
轍が、金色に光っていた。
なんのために生き残っているんだろう。
夜中に目が覚めるたびに、そう思っていた。
でも今、ふと思った。
イノシシは、そんなことを考えない。
ただ、毎日同じ道を通る。昨日より少し深い轍を作りながら。
それが、進むということかもしれない。
帰り道、黒岩が言った。
「蓮見さん、なんか変わりましたね。」
百合は助手席で窓の外を見たまま答えた。
「そうですか。」
「なんか、前より軽い。」
百合は少し考えた。
「轍の話、面白かったです。」
黒岩は笑った。
「イノシシに言っておきます。」
百合も笑った。
夜の山道を、軽トラックが走った。
ヘッドライトが、暗い道を照らした。
その先に何があるか、見えなかった。
でも百合は、それでいいと思った。
ただ、進んでいけばいい。
昨日より少しだけ深い轍を、作りながら。