一週間後。
エマはザックを背負って奥多摩へ向かった。
テントも持った。
コーヒーの道具も持った。
透への手紙も持った。
老人の木箱の手紙も持った。
祠の前に、男が立っていた。
三十代くらいだった。
背が高かった。
静かな目をしていた。
エマを見た。
エマを見て、少し目を細めた。
老人が言った通りだ、という顔だった。
エマも透を見た。
初めて会う人だった。
でも、初めての感じがしなかった。
「絵馬さんですか」
「透さんですか」
同時だった。
二人は祠の前に座った。
川の音がした。
山の川だった。
ユーフラテスではなかった。
でも、繋がっている気がした。
すべての水は、繋がっている。
透が先に話した。
「老人から、何を聞きましたか」
「手紙を読みました」
「手紙」
透は少し驚いた顔をした。
「老人が書いたんですか」
「あなたが書いたんです」
透は黙った。
長い沈黙だった。
「僕が書いた手紙を、老人がエマさんに届けた」
「そういうことだと思います」
透はまた黙った。
今度は短かった。
「老人らしい」
小さく笑った。
エマも笑った。
初めて、軽くなった気がした。
三月からずっと張り続けていた何かが、少し緩んだ。
「ハルマゲドンの意味、わかりましたか」と透が聞いた。
「わかった気がします」
「教えてもらえますか」
エマは少し考えた。
それから言った。
「忘れている状態のことだと思います」
「何を忘れている?」
「同じだということを」
透は空を見た。
木々の隙間から、青い空が見えた。
「同じ」と透は繰り返した。
「水と氷と水蒸気みたいに」
透がエマを見た。
「老人と同じことを言う」
「老人が正しいんだと思います」
しばらく、二人は黙っていた。
川の音だけがあった。
鳥の声だけがあった。
透が言った。
「どうするつもりですか」
エマは祠の記号を見た。
螺旋の中心を見た。
「わかりません」
正直に言った。
「でも、やめるつもりはありません」
「何を?」
「思い出すことを」
透はうなずいた。
長い間、うなずいていた。
夕方になった。
エマはテントを張った。
焚き火をした。
コーヒーを淹れた。
透の分も淹れた。
二人で飲んだ。
火が、ゆっくり燃えていた。
煙が、真っ直ぐ上に昇った。
風がなかった。
山が、静かだった。
エマはスマートフォンを取り出した。
焚き火の写真を撮った。
インスタに上げようとした。
やめた。
この夜は、自分だけのものにしたかった。
透が言った。
「星が出てきた」
エマは空を見た。
オリオンだった。
三つ星が、はっきり見えた。
「オリオン対戦って、知っていますか」とエマは聞いた。
透はエマを見た。
驚いた顔だった。
「知っています」
「終わったと思いますか」
透は空を見た。
長い間、オリオンを見た。
それから言った。
「終わりかけていると思います」
「何が終わらせると思いますか」
透は答えなかった。
すぐには答えなかった。
焚き火が、パチンと鳴った。
透が言った。
「あなたみたいな人が、思い出すことだと思います」
エマは焚き火を見た。
火が揺れた。
オレンジと赤と、少しの青。
ユーフラテスの夕日と、同じ色だった。
この夜のことを、エマは誰にも話さなかった。
ノートにも書かなかった。
インスタにも上げなかった。
ただ、覚えていた。
ずっと、覚えていた。