金曜の夜、仕事終わりに電車に乗った。
ザックひとつ。テント、シュラフ、バーナー、コーヒーの道具。それだけあれば、エマには十分だった。
奥多摩駅に着いたのは夜の九時を過ぎていた。
空気が違った。
東京にいるのに、東京じゃない空気。
エマは深く吸った。
久しぶりに、肺が全部ふくらんだ気がした。
翌朝。
テントを出たのは五時だった。
珈琲を淹れた。ミルで豆を挽いて、ドリッパーにお湯をゆっくり注ぐ。
この時間のためにキャンプをしている、と言っても過言ではなかった。
インスタ用に写真を撮った。
苔むした石の上に置いたカップ。
いいね、これ。
しばらくぶりの、軽い気持ちだった。
珈琲を飲みながら、何も考えなかった。
ユーフラテスのことも。
黙示録のことも。
ただ、鳥の声を聞いていた。
午前八時。
テントを撤収して、散策に出た。
地図は持っていたが、あまり見なかった。
エマの散策はいつもそうだった。気になる方へ曲がる。面白そうな道へ入る。迷ったら戻る。
新緑だった。
五月の奥多摩の緑は、種類が多すぎて名前がわからなかった。黄緑、深緑、青みがかった緑、光を透かす薄い緑。
これだけで絵になる、と思った。
スマートフォンを構えた。
撮った。また撮った。
歩いた。
一時間ほど歩いたところで、道が細くなった。
地図にない道だった。
引き返そうと思った。
でも、足が進んだ。
木々の密度が上がった。
光が変わった。
そこに、祠があった。
小さかった。見落としそうなほど小さな、石の祠。
苔がついていた。古いものだとわかった。
エマはしゃがんで、正面から見た。
中に、何かあった。
石に、記号が刻まれていた。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
エマの手が、止まった。
見たことがある。
どこで?
思い出せなかった。
でも確かに、知っている形だった。
「珍しいでしょう」
声がした。
振り返ると、老人が立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
「この祠ですか?」とエマは聞いた。
「その刻み。見てわかる人は、久しぶりだ」
老人は祠ではなく、エマを見ていた。
「若い男が来たのは、二年前だったかな」
老人は遠くを見るように目を細めた。
「似ているわけじゃない。でも、同じ目をしている」
エマは何も言えなかった。
同じ目、という言葉の意味が、わからなかった。
わかりたくない気もした。
「お名前は?」と老人が聞いた。
「絵馬、です」
老人は少し黙った。
それから、静かに笑った。
「そうか」
それだけ言って、老人は木々の方へ歩いていった。
エマが我に返って振り返ったとき、もう姿はなかった。
祠の前に、しばらく座っていた。
スマートフォンを取り出した。
写真を撮ろうとした。
撮れなかった。
なぜかはわからなかった。
ただ、この場所はインスタに上げてはいけない、と思った。
生まれて初めて、そう思った。
立ち上がって、来た道を戻った。
ザックを背負って、駅へ向かいながら、エマはずっと考えていた。
同じ目。
その男は何を見たのか。
その男は今、どこにいるのか。
名前も知らない。
顔も知らない。
でも、探したい、と思った。
理由はなかった。
ただ、そう思った。