奥多摩 三日目
訓練は、地味だった。
透が想像していたものとは、全く違った。
派手な能力開発でも、秘密の武術でも、神秘的な儀式でもなかった。
ただ、座る。
ただ、歩く。
ただ、聞く。
「もっと遠くを聞け」
弥山が言った。
透は目を閉じて、耳を開いた。
最初の日より、層が分かれて聞こえるようになっていた。自然の音が背景に退いて、人工の音が前に出てくる。エンジン音、人の足音、金属の摩擦音。
「東側の二人は」
「まだいます。交代している。夜中に一人来て、一人去った」
「よく気づいた」
「眠れなかったので」
弥山は小さく笑った。
「遠視はどうだ」
透は首を振った。
「あれ以来、出ない」
「出そうとするな。来るものだ」
「どうすれば来ますか」
「忘れろ」
透は脱力した。
「忘れれば来るというのは」
「意識すると、頭が邪魔をする。サンカの能力は全部そうだ。考えた瞬間に消える。体に任せた時だけ動く」
透は湧き水を見た。
三日間、この水だけを飲んでいた。
体が変わってきていた。感覚が、研ぎ澄まされていく感じがあった。東京で暮らしていた自分が、少しずつ遠くなっていった。
昼過ぎに、弥山が言った。
「今夜、客が来る」
「監視の人間ですか」
「違う。味方だ」
透は聞いた。
「どこから」
「スリランカから」
透は顔を上げた。
「タミルの」
弥山が頷いた。
「青人の末裔だ。名前はアルジュナという。お前と同じ年だ。お前と同じように、三日前に動き出した」
「三日前というのは」
「お前がエアと接触した夜だ。エアは同時に複数の者に連絡した。お前だけではない」
透は初めて、自分以外の存在を意識した。
同じ夜に、同じように目覚めた人間が、世界のどこかにいる。
「他にも」
「いる。だが今は、アルジュナだけを考えろ」
同日 成田空港
アルジュナ・クマラスワミは、入国審査の列に並んでいた。
小柄だったが、目が大きかった。肌が浅黒かった。そして、目の色が、普通ではなかった。
深い紺色だった。
青、と言っても良かった。
日本人の審査官が、パスポートを見て、スタンプを押した。何も気づかなかった。
アルジュナは荷物を受け取りながら、スマートフォンを見た。
メッセージが来ていた。
送信者の名前は、登録されていなかった。
「奥多摩。山路透を探せ。血が呼び合う」
アルジュナは深呼吸した。
コロンボから東京まで、十時間のフライトだった。眠れなかった。三日前の夜から、眠れていなかった。
あの声が、耳の奥に残っていた。
夢の中で聞こえた声ではなかった。
目が覚めている時に、聞こえた。
アルジュナ。お前の民の記憶が、今必要だ。
アルジュナは祖父のことを思った。
コロンボの郊外に住む、小さな老人。タミル語で、毎晩、古い詩を唱えていた。クマリ・カンダムの詩だった。失われた大陸の詩だった。
「これはただの詩ではない」
祖父はいつも言っていた。
「記憶だ。海の底に沈んだ、我々の故郷の記憶だ」
アルジュナは子供の頃、信じていなかった。
大人になって、もっと信じなくなった。
三日前の夜まで。
奥多摩 夜
焚き火が、また燃えていた。
アルジュナが社の前に現れたのは、日が完全に落ちた後だった。
奥多摩駅から、地図を見ずに歩いてきた。
道に迷わなかった。
透は立ち上がった。
アルジュナは透を見た。透はアルジュナを見た。
言葉がなかった。
だが、何かがあった。
初めて会う感じがしなかった。どこかで、ずっと昔に、会ったことがあるような感覚だった。
弥山が言った。
「座れ。二人とも」
アルジュナの日本語は、完璧だった。
透が驚くと、アルジュナは言った。
「なぜかわからないけど、できる。子供の頃から」
「血だ」
弥山が言った。
「タミルの民と日本は、古い繋がりがある。言語学者が不思議がっている。タミル語と日本語に、共通する構造がある。偶然ではない」
アルジュナが頷いた。
「祖父がそう言っていた。日本は我々の兄弟の国だと」
透はアルジュナの目を見た。
紺色だった。室内では青に見えた。
「目の色が」
「生まれつきだ。家族の中で、隔世で出る。祖父も同じ色だった」
弥山が言った。
「青人の証だ。遺伝子の中に残っている。薄まりながらも、消えない」
クマリ・カンダムの記憶
アルジュナは、祖父の詩を唱えた。
タミル語だった。透には意味がわからなかった。
だが、聞いていると、何かが来た。
映像ではなかった。感覚だった。
広い海。温かい水。陸地が、ゆっくりと、沈んでいく感覚。人々が船に乗って、逃げていく。振り返る。沈んでいく故郷を見ている。
透の目から、涙が出た。
理由がわからなかった。
アルジュナが詩をやめた。
「泣いているのか」
「なぜか、わからない」
アルジュナは静かに言った。
「俺の祖父も、この詩を唱えると泣く。毎回泣く。だが悲しいからではないと言っていた」
「では」
「覚えているからだ、と」
弥山が火を見ながら言った。
「細胞の記憶だ。DNAの中に、経験が刻まれる。ムーが沈んだ日の記憶が、お前たちの血の中にある。何万年経っても、消えない」
透は涙を拭いた。
「私はタミルの血ではないのに」
「縄文の血だ。同じ日に、同じものを失った。ムーが沈んだ時、縄文の民も、タミルの民も、同じ海を見ていた」
アルジュナが言った。
「エアから聞いた。青人の役割を」
透は聞いた。
「何ですか」
「記憶の保管者だ。タミルの民は、クマリ・カンダムの記憶を、詩として、神話として、何万年も保存してきた。失われた大陸の地図、言語、文化。全部、詩の中に隠してある」
「なぜ隠す必要が」
「狙われるからだ」
アルジュナの目が、暗くなった。
「タミルの民は、ずっと迫害されてきた。スリランカで。インドで。記憶を持つ者が、消されようとする。だから詩に隠した。意味がわからない者には、ただの歌に聞こえる」
弥山が言った。
「オベリスクが意識を眠らせる。タミルの詩が意識を覚ます。真逆の機能を持っている」
透は繋がりを感じた。
「だから迫害された」
「そうだ」
弥山が頷いた。
「覚醒を促すものは、支配する側には邪魔だ。消したい。だが詩は、人の口から口へ伝わる。完全には消せない。だからタミルの民ごと、弱体化させようとしてきた」
アルジュナが静かに言った。
「スリランカの内戦で、どれだけの人が死んだか。世界はあまり知らない」
透は何も言えなかった。
遠視
深夜になった。
弥山が眠った。
透とアルジュナは、焚き火の前に残った。
「お前も能力が出たか」
アルジュナが聞いた。
「遠視が一度だけ。あとは気配を読めるようになってきた。お前は」
「音だ」
アルジュナは耳を触った。
「遠くの会話が聞こえる。コロンボにいた時から始まった。最初は頭がおかしくなったと思った」
「今も聞こえるか」
「今は抑えている。全部聞いていると、疲れる」
透は東側の気配を確認した。
まだいた。
「監視されている」透は言った。「東側に二人」
アルジュナが耳を澄ませた。
「会話が聞こえる。日本語ではない。英語でもない」
「何語だ」
「わからない。でも」
アルジュナが目を細めた。
「一人が言っている。対象が二人になった。ジュネーブに報告しろ、と」
透は息を呑んだ。
「聞こえるのか、そこまで」
「四百メートルくらいなら」
透は弥山を起こそうとした。
アルジュナが止めた。
「待て。まだ聞こえる」
しばらく沈黙があった。
アルジュナの顔が、険しくなった。
「第八段階を早めるそうだ。二ヶ月後に」
「何をするんだ、第八段階というのは」
アルジュナは首を振った。
「それは聞こえなかった。暗号で話し始めた」
二人は顔を見合わせた。
焚き火が、風もないのに、大きく揺れた。
その瞬間。
透に、遠視が来た。
石造りの地下室。
スクリーンが三つ。
コンラートが立っていた。
今回は背中しか見えなかった。だが、スクリーンの一つに、何かが映っていた。
地図だった。
日本列島の地図だった。
複数の点が、光っていた。
東京。京都。奈良。出雲。沖縄。
そして奥多摩。
奥多摩の点だけが、赤かった。
他は全て、緑だった。
コンラートが地図を見ながら、誰かに言った。
声は聞こえなかった。
だが口の動きが、読めた気がした。
時間がない。全部、同時に動かせ。
透は現実に戻った。
呼吸が乱れていた。
アルジュナが透の背中を叩いた。
「大丈夫か」
「見えた。また見えた」
透は見たものを全部、話した。
アルジュナは黙って聞いた。
最後に言った。
「日本列島の複数の点というのは」
「わからない。でも緑の点が、オベリスクと同じ色だった」
アルジュナが立ち上がった。
弥山を起こしに行った。
弥山は、起こされる前に目を開けていた。
「聞こえていた」
弥山は言った。
「全部か」
「全部だ」
弥山は立ち上がって、空を見た。
曇っていた。
さっきまで見えていた、明るい星が、雲の向こうに消えていた。
「エア」
弥山が空に向かって言った。
声ではなかった。念じるように言った。
しばらく待った。
何もなかった。
そして。
社の中の短波ラジオが、誰も触っていないのに、ノイズを出し始めた。
三人が、社の中に入った。
ラジオの前に座った。
聞こえている。
エアの声がした。
遠視の内容は正しい。第八段階が早まった。私も計画を変える必要がある。
透は聞いた。
「第八段階とは何ですか」
短い沈黙があった。
人類の記憶を、最後にもう一度、消そうとしている。
焚き火の外で、風が鳴った。
オベリスクのネットワークを使って、特定の周波数を、同時に、全世界に向けて放出する。意識が深く眠る。目覚めかけていた者たちが、また眠る。
「それが第八段階か」
そうだ。そしてその後に、脚本の最終章が動く。終末論の実行だ。
アルジュナが言った。
「止められるか」
止められる。だが、方法は一つだ。
三人が、ラジオを見た。
オベリスクのネットワークを、逆用する。眠らせる周波数ではなく、覚ます周波数を、同じネットワークで流す。
「どうやって」
タミルの詩だ。
アルジュナが息を呑んだ。
クマリ・カンダムの詩には、覚醒の周波数が含まれている。それをオベリスクに乗せれば、ネットワークが逆転する。眠らせる装置が、覚ます装置になる。
「詩をオベリスクに乗せるというのは」
物理的に、オベリスクに触れて、唱える必要がある。世界中の主要なオベリスクで、同時に。
三人は顔を見合わせた。
弥山が言った。
「何人必要だ」
五人だ。五色人の血を持つ者が、それぞれの場所で、同時に唱える。
透は理解した。
「五色人の代表が、五つのオベリスクで」
そうだ。お前が黄。アルジュナが青。あと三人が必要だ。
「どこにいる」
すでに動き出している。赤、白、そして緑。
透は止まった。
「緑というのは」
レプティリアンの血を持つ者の中に、エア側についた者がいる。全ての種族が、支配を望んでいるわけではない。
弥山が静かに言った。
「それは知らなかった」
私も最近まで知らなかった。だが連絡が来た。内部に、反乱がある。
雨が降り始めた。
社の屋根を、雨粒が叩いた。
二ヶ月だ。それまでに五人が集まり、同時に動く必要がある。
「場所は」
ロンドン、パリ、ローマ、ワシントン、そしてニューヨークだ。
透は地図を頭の中に描いた。
「私はどこへ」
ニューヨークだ。自由の女神の近くに、見落とされているオベリスクがある。
アルジュナが言った。
「俺は」
ロンドン。テムズ川沿いのクレオパトラの針だ。
雨が強くなった。
ラジオのノイズが、少し大きくなった。
もう一つ、伝えておく。
エアの声が、重くなった。
コンラートは、お前たちを排除しようとするだろう。だが彼には、できない制約がある。
「何の制約ですか」
彼自身が、宇宙法に縛られている。ネフィリムの計画を実行する権限はある。だが、宇宙法評議会が介入を許可した者を、直接排除することは、できない。
「では安全か」
直接は、できない。だが間接的には、何でもする。
透は弥山を見た。
弥山は目を閉じていた。
「間接的とは」
人を使う。お前たちの周囲の、普通の人間を。気づかないまま動かされる者たちを。
透の頭に、東京の顔が浮かんだ。
会社の同僚。友人。
そして。
母親。
今夜はここまでだ。
エアが言った。
休め。明日から、残り三人を探す動きが始まる。
ラジオのノイズが、静かになった。
エアが去った。
三人は、雨の音の中に残された。
弥山が目を開けた。
「眠れ。明日は長い一日になる」
透は横になった。
雨の音を聞いていた。
眠れないと思った。
だが、三分後には眠っていた。
夢は見なかった。
アルジュナは眠る前に、空を見た。
雨で、星は全く見えなかった。
それでもアルジュナは、雲の向こうを見るように、上を見た。
そして小さく言った。
タミル語だった。
翻訳すれば、こうなる。
見ている。必ず、やり遂げる。