朝 奥多摩
透が目を覚ますと、弥山はすでにいなかった。
社の前に、水と、昨夜と同じ干し肉が置いてあった。
空が白んでいた。鳥が鳴いていた。東京から一時間半の場所とは思えない静けさだった。
透はスマートフォンを見た。
電波がなかった。
当然だと思った。
水を飲んで、干し肉を食べた。昨夜より美味く感じた。体が、山の食べ物を受け入れ始めていた。
「起きたか」
弥山が木々の間から現れた。息が全く乱れていなかった。どこかを走ってきた様子だったが、老人とは思えない動きだった。
「走ってきたのですか」
「見回りだ。毎朝する」
「何を」
「気配だ」
弥山は透の隣に立って、山を見渡した。
「昨夜から、少し変わった」
透は同じ方向を見た。木と、朝霧と、光しか見えなかった。
「何が変わったのですか」
「説明できない。だが変わった」
弥山はそれ以上言わなかった。
同じ朝 ジュネーブ
石造りの建物の地下に、部屋があった。
地図に載っていない部屋だった。
窓がなかった。空調の音だけが、一定のリズムで流れていた。
スクリーンが三つ、並んでいた。
男が一人、座っていた。
五十代に見えた。だが実際の年齢は、外見から判断できる範囲を超えていた。白髪で、目が灰色だった。感情が読めない目だった。
名前はコンラートといった。
組織の中では「管理者」と呼ばれていた。
スクリーンの一つに、日本の地図が映っていた。奥多摩の一点が、赤く点滅していた。
「出たか」
コンラートは独り言を言った。
部下が一人、報告した。
「昨夜から信号が確認されています。短波帯域の、特定の周波数です」
「エアの周波数か」
「パターンが一致しています」
コンラートは組んだ手を、口元に当てた。
「誰と接触した」
「山路透。三十二歳。東京在住の会社員です。特に目立った経歴はありません」
「家系は」
部下が一瞬、間を置いた。
「山路家は、三代前まで追えます。その前が、確認できません」
コンラートの目が、細くなった。
「サンカか」
「可能性が高いと思われます」
コンラートはスクリーンを見た。
赤い点が、静かに点滅し続けていた。
「監視を続けろ。まだ動くな」
「理由を伺っても」
「泳がせる。エアが何を伝えたか、知りたい。動けば、情報が止まる」
部下は頷いた。
コンラートは別のスクリーンを見た。
世界地図だった。
各都市に、緑の点が光っていた。ロンドン、パリ、ワシントン、ローマ、ニューヨーク。
オベリスクの位置と、完全に一致していた。
「周波数は正常か」
「全て正常です。出力、安定しています」
コンラートは小さく頷いた。
「指示書の第七段階は」
「予定通り進行中です」
「第八段階の準備は」
「三ヶ月後に移行可能です」
コンラートは立ち上がった。
背が高かった。天井に近いほど、高かった。
「急ぐ必要はない」
静かな声だった。感情のない声だった。
「だが、エアが動き始めたなら、こちらも準備を早める必要があるかもしれない」
コンラートはドアへ向かいながら、振り返った。
「山路透の周辺を洗え。接触者を全員リストアップしろ」
「了解しました」
「そして」
コンラートの目が、灰色から、一瞬だけ、別の色になった。
金色だった。
「サンカのネットワークを、今度こそ地図に落とせ。千年待った。もう終わりにする」
奥多摩 同日 午前
「歩け」
弥山が言った。
透は立ち上がった。
「どこへ」
「どこでもいい。足に任せろ」
透は歩き始めた。最初は方向が定まらなかった。左へ行きかけて、右へ修正して、また左へ。
「考えるな」
弥山が後ろから言った。
「体に聞け」
透は目を閉じた。
歩いた。
三分後、足が止まった。
目を開けると、小さな湧き水があった。地図にない水だった。澄んでいた。
「ここがわかったか」
弥山が隣に来た。
「わかったというか、来てしまった」
「それでいい。サンカの血だ。山を地図なしで歩ける。水を見つけられる。気配を読める。お前はずっとそれを夢の中でやっていた」
透は湧き水を見た。
「夢は訓練だったのですか」
「準備だ。エアが送っていた。お前が気づく前から」
透は膝をついて、水を手ですくった。飲んだ。
冷たかった。
何かが、体の奥で動いた気がした。
「次を教える」
弥山は周囲の木々を見渡した。
「声を聞く訓練だ」
「声?」
「山の声だ。風の方向。動物の動き。人の気配。全部、音になっている。耳を開けろ」
透は目を閉じた。
最初は何も聞こえなかった。
いや、違った。
聞こえすぎていた。
鳥の声。風の音。葉が擦れる音。遠くで水が流れる音。もっと遠くで、何かが動く音。
「多すぎます」
「最初はそうだ。慣れると分類できる。自然の音と、不自然な音が、分かれて聞こえる」
「不自然な音とは」
弥山は答えなかった。
代わりに言った。
「今、山の東側に人間が二人いる。どのくらい離れていると思う」
透は耳を澄ませた。
何かが、あった。
音というより、気配だった。
「三百メートル?いや、五百メートルくらい」
「四百だ。登山者だ。危険ではない。だが」
弥山が透を見た。
「昨夜からずっといる登山者は、登山者ではない」
透の背中が、冷えた。
「監視ですか」
「昨夜から気配が変わったと言っただろう」
弥山は静かだった。怒っていなかった。怖がってもいなかった。ただ、事実として言った。
「思ったより早かった。お前がエアと接触した情報が、もう届いたようだ」
「どこへ」
「ジュネーブだ」
透は山の東側を見た。
木しか見えなかった。
「逃げますか」
「逃げない」
弥山は湧き水の前に座った。
「まだ動く段階ではない。向こうも動かない。お互い、様子を見ている」
「なぜ向こうは動かないのですか」
「泳がせたいんだろう。エアが何を伝えたか、知りたい」
透はジュネーブという言葉を頭の中で繰り返した。
石造りの建物。地図にない部屋。そこで誰かが、自分の名前を調べている。
なぜか、その映像が、はっきりと浮かんだ。
「どうした」
弥山が言った。
「なんか、見えた気がして」
「何が」
「地下の部屋。スクリーンが三つ。白髪の男が」
弥山の目が、鋭くなった。
「詳しく言え」
「目が灰色で。でも一瞬、金色になった気がして」
弥山は立ち上がった。
「コンラートだ」
「知っているのですか」
「名前だけだ。実物を見た者は、ほとんど生きていない」
透は自分が何を見たのか、理解できなかった。
幻覚か。インスピレーションか。
「これも血ですか」
「そうだ」
弥山は山の東側を見た。
「遠視だ。サンカの中でも、特別な者にしか出ない」
そして静かに言った。
「お前は、思っていたより、深い血を持っている」
ジュネーブ 同日 午後
コンラートは報告を受けた。
「対象が、こちらの監視に気づいた可能性があります」
「根拠は」
「行動パターンが変わりました。東側を、二度、見ています」
コンラートは無表情だった。
「気づいたか」
「サンカの老人と一緒にいるためかと」
「いや」
コンラートは考えた。
「対象自身だ。老人だけなら、こちらの存在に気づいても動じない。だが対象が気づいたとすれば」
コンラートは立ち上がった。
「血が、思ったより濃い」
部下が言った。
「排除しますか」
コンラートは首を振った。
「まだだ。だが」
スクリーンの赤い点を見た。
「第八段階の準備を、一ヶ月早めろ」
「三ヶ月後を、二ヶ月後に?」
「そうだ」
コンラートは窓のない部屋を出た。
廊下を歩きながら、考えた。
エアが動いた。サンカが動いた。そして予想外の血が目覚めた。
千年分の計画が、初めて、微かに揺れた。
コンラートは、それを恐怖とは呼ばなかった。
だが、確かに何かを感じた。
それは、長い眠りの中で、初めて感じる、朝の気配に似ていた。