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五十音 百 · Literary Fiction · SF · 2037

測れないもの

数値に出ないものを

2037年、病院に医師はいなかった。

 正確には、いることはいた。白衣を着て、廊下を歩いて、カルテに署名する人間が。だがそれは形式上の話で、診断はすべてARES——Adaptive Response and Evaluation System——が行っていた。

 ARESは間違えなかった。

 導入から4年、誤診率ゼロ。投薬ミスゼロ。患者満足度、92.4点。厚生労働省が発表したその数字は、どの病院も人間の医師だけでやっていた時代には出せなかった数字だった。

 佐伯誠は、そのARESの前に座っていた。

 58歳。元会社員。3ヶ月前に早期退職した。妻とは20年前に別れ、子供はいない。趣味の欄には、以前は「読書」と書いていたが、最近は何も書いていない。

 「佐伯誠さん」

 ARESの音声は穏やかだった。性別を感じさせない、静かな声だった。

 「本日の検査結果をお伝えします。血圧、収縮期118、拡張期74。血糖値、89。すべて基準値内です。前回との比較において有意な変化はありません」

 佐伯は頷いた。

 「つまり、異常なしですか」

 「その通りです」

 「でも」佐伯は言った。「眠れないんです」

 「入眠困難についてはすでにご申告いただいています」ARESは答えた。「ストレス指標、コルチゾール値、および脳波パターンの分析から、軽度の睡眠障害と判断しています。処方済みの睡眠補助薬の服用状況を確認させてください。昨夜は服用されましたか」

 「しました」

 「効果はありましたか」

 「眠れました」佐伯は言った。「でも眠れない、と言っているのはそういう意味じゃないんです」

 ARESは0.3秒、間を置いた。膨大なデータベースを検索している時間だ、と佐伯は思った。

 「もう少し詳しく教えていただけますか」

 詳しく。

 佐伯は窓の外を見た。秋だった。病院の中庭に、銀杏が1本あった。葉が黄色くなりかけていた。

 「会社を辞めてから」佐伯は言った。「毎朝目が覚めると、自分が誰だかわからない感じがするんです。一瞬だけ。それからすぐ戻ってくる。佐伯誠、58歳、無職、というのが戻ってくる。でもその一瞬の、何者でもない感じが——」

 佐伯は言葉を探した。

 「怖いような、懐かしいような」

 ARESはまた間を置いた。今度は少し長かった。

 「それは解離様症状の可能性があります。精神科的評価をお勧めします。予約を——」

 「違います」佐伯は静かに言った。「病気の話をしているんじゃない」


 担当医の名前は、形式上、橘玲子となっていた。

 45歳。ARESが導入される前は、内科医として12年働いていた。今の仕事は、ARESの出力した診断書に署名し、患者が「人間と話したい」と申請した場合に対応することだった。その申請は、月に数件しかなかった。

 佐伯誠が申請してきたのは、3度目の診察のあとだった。

 橘は面談室で佐伯を待ちながら、ARESのログを読んでいた。

 「病気の話をしているんじゃない」

 この一行で会話が終わっていた。ARESは「ご不明な点があれば担当医療スタッフへ」と応答して、セッションを閉じた。正しい対応だった。ARESのマニュアル通りだった。

 佐伯が入ってきた。思ったより小さな男だった。猫背で、目が静かだった。

 「橘先生ですか」

 「はい」橘は言った。「どうぞ」

 佐伯は椅子に座った。しばらく、何も言わなかった。

 「ARESに」佐伯はようやく言った。「怒っているわけじゃないんです」

 「ええ」

 「あれは正しいと思う。数値は正確だし、説明も丁寧だし、待ち時間もない。便利です」

 「でも」と橘は言った。

 佐伯は少し驚いた顔をした。先を促されるとは思っていなかったようだった。

 「でも」佐伯は繰り返した。「ARESに話すと、自分が患者になる。佐伯誠、58歳、軽度睡眠障害、経過観察中、になる。それ以外の自分がどこかへ行ってしまう気がして」

 橘は黙って聞いた。

 「会社でも同じでした」佐伯は続けた。「30年いて、辞めた日に、社員番号が消えた。消えた瞬間に、自分の30年も一緒に消えた気がした。データの中にはあるんでしょうけど」

 窓の外で、銀杏の葉が1枚落ちた。

 「先生は」佐伯は聞いた。「ARESが来てから、何か変わりましたか」

 橘は少し間を置いた。

 正直に言えば、と思った。

 「署名だけになりました」橘は言った。

 佐伯は頷いた。責めるでもなく、同情するでもなく。

 「先生も」佐伯は静かに言った。「情報になったんですね」

 橘玲子は、その言葉をしばらく自分の中で転がした。

 情報になった。

 間違っていなかった。署名する機械になった日がいつだったか、気がついたらそうなっていた。ARESは正確だった。自分より正確だった。だから任せた。任せているうちに、自分が何をしていたのか、少しずつわからなくなっていた。

 「佐伯さん」橘は言った。「次はARESじゃなくて、私の外来に来てもらえますか」

 佐伯は少し目を細めた。

 「先生の外来は、何を診るんですか」

 橘は答えるまでに、少し時間がかかった。

 「数値に出ないものを」


 橘の外来は、病院の端にあった。

 ARESの端末が並ぶ新しい棟とは反対側の、古い建物の2階だった。窓が大きく、中庭の銀杏がよく見えた。予約システムには載っていない外来で、ARESに「人間と話したい」と申請した患者だけが来た。

 月に、10人もいなかった。

 佐伯は毎月来た。

 特別なことは何もなかった。橘が聞いて、佐伯が話した。退職してから初めて行った映画の話。近所の定食屋の大将が変わった話。夜中に目が覚めて、天井を見ていた話。

 ARESのログには残らない話ばかりだった。

 ある日、佐伯が言った。

 「先生は、なんで医者になったんですか」

 橘は少し考えた。

 「父が病気だったんです」橘は言った。「私が12歳の時に入院して、半年で死んだ。その時の主治医が、父の話をよく聞いてくれた。数値の話じゃなくて、父自身の話を」

 「それで」

 「それで思いました」橘は言った。「そういう医者になりたいと」

 佐伯は窓の外を見た。銀杏はすっかり葉を落としていた。冬だった。

 「なれましたか」

 橘は少し間を置いた。

 「ARESが来る前は」橘は言った。「少しは」

 佐伯は頷いた。

 「先生」佐伯は言った。「私ね、最近また眠れているんです。薬なしで」

 「それは」

 「たぶん」佐伯は橘を見た。「ここで話すようになってからです。誰かに、佐伯誠として話を聞いてもらえると、夜、自分が誰だかわからなくなる感じが、少し薄れる気がして」

 佐伯誠として。

 橘は、その言葉を聞いて、自分の父のことを思い出した。入院中の父は、病室でよく橘の話を聞きたがった。学校のこと、友達のこと、好きな本のこと。医師や看護師に囲まれた父は、娘の話を聞いている時だけ、患者ではなかった。

 橘玲子の父として、そこにいた。


 3月、ARESのシステムが更新された。

 新バージョンは会話機能が強化されていた。患者の感情パターンを学習し、より自然な対話ができるようになった、とプレスリリースには書いてあった。満足度は94.1点に上がった。

 同じ月、病院から橘に通達が来た。

 患者数の減少に伴い、人間担当外来を縮小します。

 橘は通達を読んで、窓の外を見た。桜が咲き始めていた。

 翌日、佐伯が来た。

 橘は通達のことを言おうとして、やめた。佐伯が話し始めたからだ。

 「昨日ね」佐伯は言った。「近所を散歩していたら、桜が咲いていて」

 「ええ」

 「きれいだと思ったんです。久しぶりに、そう思った」橘を見た。「去年も桜は咲いたはずなんですが、見ていなかった。見えていなかったのかもしれない」

 橘は頷いた。

 「変わりましたね」橘は言った。

 「先生のおかげです」

 「違います」橘は言った。「佐伯さんが変わったんです。私は話を聞いていただけ」

 佐伯は少し笑った。この1年で、何度か見た笑い方だった。照れているような、困っているような。

 橘は通達のことを、その日も言えなかった。


 外来が終わったのは、5月だった。

 最後の日、佐伯は来なかった。前の週に「来月から来られなくなります」と電話があった。息子と暮らすことになった、と言った。子供はいない、とカルテには書いてあったが、橘は訂正しなかった。

 データより本人の言葉が正しい。

 橘は空になった面談室に座って、窓の外を見た。銀杏の新緑が光っていた。

 ARESの端末が、廊下から光っていた。今日も92.4点——いや、94.1点の正確さで、どこかの誰かに数値を告げているはずだった。

 間違えない。疲れない。変わらない。

 だから人間じゃない。

 橘は立ち上がった。白衣のポケットに手を入れた。何もなかった。いつもはそこにあるはずのものが——何だったか、一瞬わからなかった。

 聴診器だ、と思い出した。

 ARESが来てから、使っていなかった。

 橘は医局に戻って、引き出しを開けた。聴診器があった。3年以上、触っていなかった。

 手に取ると、思ったより重かった。

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