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エピローグ

杉の木の下で

秋になった。


奥多摩の紅葉は、静かだった。

赤と橙と、残った緑が混ざっていた。

杉だけが、変わらなかった。

季節が変わっても、杉は緑だった。

真っ直ぐだった。

根から梢(こずえ)まで、真っ直ぐだった。


祠の前に、三人がいた。

透。

エマ。

そして、エレズ。


エレズは三ヶ月ぶりに、自由だった。

痩せていた。

白髪が増えていた。

でも、目は変わっていなかった。

いや、変わっていた。

鋭さは同じだった。

でも、今は温かかった。


「寒くないですか」とエマが聞いた。

「テルアビブより寒い」とエレズは言った。

「慣れますよ」と透が言った。

「慣れるつもりはない」

「なぜ」

「寒いと、生きている気がする」

透とエマは顔を見合わせた。

笑った。


エレズも笑った。

三ヶ月ぶりに、笑った気がした。


三人は祠の前に座った。

記号を見た。

螺旋を見た。


「世界は変わりましたか」とエレズが聞いた。

「少し」とエマが言った。

「少しだけ」と透が言った。

「少しで、十分ですか」

エマは螺旋の中心を見た。

「十分だと思います」

「なぜ」

「波紋は、止まらないから」


エレズは祠の記号を見た。

螺旋の外側を見た。

どこまでも広がっていく形を見た。

「そうですね」


川の音がした。

風が吹いた。

杉が揺れた。

紅葉が、一枚落ちた。

くるくると回りながら、落ちた。


「ヨナタンは」と透が聞いた。

エレズは少し間を置いた。

「辞めました」

「組織をですか」

「そうです。先週」

「どこへ」

「わかりません。でも」

エレズは杉を見た。

「杉の話をしていました。最後に」

エマが聞いた。

「何と言いましたか」

「根を探す、と言いました」


三人は黙った。

川の音が続いた。


エマがポケットからノートを出した。

六冊目のノートだった。

「エレズさんに渡したいものがあります」

「何ですか」

「記録です。あなたの記録です」

エレズはノートを受け取った。

開いた。

最初のページを読んだ。


エレズ・ベングリオン。

ヘブライ語で、杉。

三十年間、空にいた人間が、地上に降りた記録。


エレズは読むのを止めた。

閉じた。

胸に当てた。

何も言わなかった。

言える言葉が、なかった。


透が言った。

「老人が言っていました」

「何を」とエレズが聞いた。

「記録は、記憶になる。記憶は、忘れられない、と」


エレズはノートを見た。

六冊目のノートを見た。

エマが書いた文字を見た。

「ありがとう」

日本語で言った。

エマが少し驚いた顔をした。

「日本語、話せるんですね」

「少しだけ」

「最初から話せばよかった」

透と同じことを言った。

エレズはまた笑った。


秋の空だった。

青かった。

雲があった。

でも光があった。


「これからどうしますか」とエマが聞いた。

エレズに聞いた。

「日本にいます。しばらく」

「どこに」

「奥多摩がいいと思っています」

透が驚いた顔をした。

「奥多摩に住むんですか」

「杉林が、悪くないので」

エマが笑った。

「ソロキャンプ、教えますよ」

「ありがとう。でも、インスタグラムはやりません」

エマがまた笑った。

今日一番大きな笑いだった。


三人はしばらく、祠の前にいた。

話した。

黙った。

また話した。

川の音を聞いた。

風を感じた。


計画は、まだあった。

世界は、まだ騒がしかった。

止まったわけではなかった。

でも、波紋は広がっていた。


エマが投稿した杉林の写真を見た人間が、同じことを感じた人間がいた。

文書を読んで、初めて気づいた人間がいた。

透のブログを読み返した人間がいた。

老人の話を、別の場所で知っていた人間がいた。


一人ではなかった。

三人だけではなかった。


螺旋は、中心から始まる。

でも、外へ向かう。

どこまでも、外へ向かう。

止まらない。


夕方になった。

空が、オレンジになった。

ユーフラテスの夕日と、同じ色だった。

テルアビブの地中海と、同じ色だった。

奥多摩の焚き火と、同じ色だった。


同じものだった。

ずっと、同じものだった。

形が違うだけだった。

水と、氷と、水蒸気のように。


エレズが立ち上がった。

杉を見上げた。

根を見た。

梢(こずえ)を見た。

その間の幹を見た。

「帰りましょうか」と透が言った。

「そうしましょう」とエマが言った。

エレズはうなずいた。


三人は山を下りた。

透が先頭だった。

エマが続いた。

エレズが最後だった。

来た時と同じ順番だった。


でも、来た時とは違った。

来た時、エレズは一人だった。

帰る時、三人だった。


駅の前で、また別れた。

透は東京へ。

エマも東京へ。

エレズはまだ、奥多摩に残った。


「また来ますか」と透が聞いた。

「来ます」とエレズは言った。

「いつ」

「満月の夜に」

透は少し驚いた顔をした。

「なぜ満月の夜に」

「夢を見るかもしれないから」

透はエレズを見た。

長い間、見た。

それから笑った。

「来てください」


電車が来た。

透とエマが乗った。

扉が閉まった。

電車が動いた。


エレズは一人、ホームに残った。

奥多摩の夜風が吹いた。

杉の匂いがした。

深く吸った。


スマートフォンを取り出した。

ミリアムに電話した。

三回で出た。

「エレズ、どうしたの」

「元気か、と思って」

「元気よ。あなたは」

「元気だ」

「本当に」

「本当に」

ミリアムは少し黙った。

「声が違う」

「そうか」

「柔らかくなった」

エレズは空を見た。

満月だった。

知らなかった。

今夜、満月だった。

「ミリアム」

「なに」

「根を張る場所が、見つかった気がする」

ミリアムはまた黙った。

長い間、黙った。

それから言った。

「よかった」


電話を切った。

満月を見た。

明るかった。

奥多摩の夜を、照らしていた。


透も、この月を見ているかもしれなかった。

エマも、この月を見ているかもしれなかった。

ヨナタンも、どこかでこの月を見ているかもしれなかった。


同じ月だった。

テルアビブから見ても。

ユーフラテスから見ても。

奥多摩から見ても。

同じ月だった。


2012年以降、管理が変わった月だった。

忘却の装置が、解凍の装置になりつつある月だった。


エレズは深く息を吸った。

吐いた。

また吸った。


杉の木が、風に揺れた。

根は、地の中にあった。

梢(こずえ)は、月を指していた。

その間で、エレズは立っていた。


ハルマゲドンは、場所ではなかった。

状態だった。

忘れた状態だった。

そして、思い出した状態もあった。


エレズは今、思い出していた。

奥多摩の夜の中で。

杉の木の下で。

満月の光の中で。


思い出していた。



杉の根 ~エレズの物語~

五十音百 著