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第九章

テルアビブに戻った翌朝。

執務室に来た。

画面を開いた。

いつも通りだった。

でも、いつも通りではなかった。


ヨナタンが来た。

「日本の件、どうだった」

「対象は一般市民です」とエレズは言った。「陰謀論的な調査をしているだけです。組織的な繋がりはありません」

「確かか」

「確かです」

ヨナタンは少し間を置いた。

値踏みするような目だった。

いつもの目だった。

「わかった。監視は続けろ」

「わかりました」


ヨナタンが出て行った。

エレズは画面を見た。

嘘をついた数を、数えた。

もう、数えられなかった。


昼過ぎ、外に出た。

近くのカフェに入った。

窓際の席に座った。

コーヒーを頼んだ。

テルアビブのコーヒーだった。

濃かった。

奥多摩の喫茶店のコーヒーとは違う濃さだった。

でも今日は、どちらも同じに思えた。


男が入ってきた。

五十代だった。

痩せていた。

白髪が多かった。

五年前より、老けていた。

でも目は変わっていなかった。

鋭くて、静かな目だった。


「ダヴィド」とエレズは言った。

男は向かいに座った。

「久しぶりだ、エレズ」

コーヒーを頼んだ。

来るまで、二人は黙っていた。


コーヒーが来た。

ダヴィドが口を開いた。

「何が必要だ」

「最上層のサーバーにアクセスしたい」

ダヴィドはカップを持ったまま、止まった。

「それは」

「知っている。危険だ」

「危険どころじゃない」

「でも、お前ならできる」

ダヴィドはコーヒーを一口飲んだ。

「何が入っているんだ、そこに」

「計画書だ」

「どんな」

「全部だ」


沈黙があった。

窓の外で、テルアビブの人々が歩いていた。

普通に歩いていた。

買い物をしていた。

話をしていた。

笑っていた。


「お前は変わったな」とダヴィドが言った。

「日本へ行ってきた」

「それだけで変わるか」

「変わった」

ダヴィドはエレズを見た。

長い間、見た。

「何があった」

エレズは窓の外を見た。

歩いている人々を見た。

「地上を見てきた」

「どういう意味だ」

「ずっと空にいた。初めて、地上を見た」

「コンラートが最後に空を見たそうだ」とダヴィドが静かに言った。

エレズはダヴィドを見た。

「知っているのか」

「噂だ。湖の前で終わりにした、と」

「そうか」

二人はしばらく黙った。

「俺たちは地上を見てこなかったな」とダヴィドが言った。

「そうだ」

「なぜだと思う」

エレズは少し考えた。

「血のせいかもしれない。でも血は言い訳にならない。コンラートでさえ、最後に空を見た」

ダヴィドは長い間、黙った。


「いつ必要だ」

「早いほど、いい」

「リスクは」

「高い」

「お前はどうする」

「一緒に落ちる」

ダヴィドは小さく笑った。

五年前と同じ笑い方だった。

「相変わらずだな」

「変わった、と言ったばかりだ」

「肝心なところは変わっていない」


ダヴィドはコーヒーを飲み終えた。

カップを置いた。

「三日くれ」

「わかった」

「場所は」

「ここでいい」

「同じ席か」

「同じ席だ」

ダヴィドは立ち上がった。

コートを着た。

「エレズ」

「なんだ」

「正しいことをしようとしているか」

エレズは少し考えた。

正直に言おうと思った。

「わからない。でも、間違っていたことはわかった」

ダヴィドはうなずいた。

「それで十分だ」

歩いていった。

人混みの中に消えた。


エレズは一人、窓際の席に残った。

コーヒーを飲んだ。

濃かった。

窓の外を見た。

地中海が見えた。

青かった。


スマートフォンを取り出した。

透にメッセージを送った。

「動き始めた。三日後に連絡する」

すぐに返信が来た。

「わかりました。エマさんも記録を始めています」


エレズはスマートフォンを置いた。

コーヒーをもう一口飲んだ。

窓の外の人々を見た。

歩いている人々を見た。

名前も知らない人々だった。

でも今日は、知っている人々に見えた。

同じだった。

ずっと、同じだった。

ただ、忘れていただけだった。


三日後

同じカフェ。

同じ席。

同じ時間。

ダヴィドが来た。

座った。

コーヒーを頼んだ。

来るまで、また黙っていた。


コーヒーが来た。

ダヴィドはコートのポケットから、小さなデバイスを出した。

テーブルの上に置いた。

「入っている」

エレズはデバイスを見た。

小さかった。

親指ほどの大きさだった。

でも、重かった。


「全部か」

「全部だ。創設から現在まで。名前も、日付も、座標も、指示系統も。全部入っている」

エレズはデバイスを手に取った。

「ありがとう」

「礼はいい」とダヴィドは言った。「これをどうする」

「メディアに送る。複数の国に、同時に」

「時間はかかるぞ」

「わかっている」

「その間に、気づかれるかもしれない」

「わかっている」

「それでもやるか」

「やる」


ダヴィドはコーヒーを飲んだ。

一口だけ飲んだ。

「一つだけ聞いていいか」

「なんだ」

「お前は、何が変わったんだ。本当に」

エレズはデバイスを見た。

親指ほどの大きさのデバイスを。

「同じだと思った」

「何が」

「全部が」

ダヴィドは少し黙った。

「それだけか」

「それだけだ」

「それだけで、三十年間いた場所を捨てられるか」

エレズは窓の外を見た。

地中海を見た。

青い海を見た。

「捨てるんじゃない」

「どういう意味だ」

「根を張るんだ」


ダヴィドは長い間、エレズを見た。

それから、また小さく笑った。

「日本で何があったんだ、本当に」

エレズも笑った。

「杉林に、行ってきた」

「杉林」

「悪くなかった」


二人はコーヒーを飲み終えた。

立ち上がった。

握手した。

三十年間の握手だった。

「気をつけろ」とダヴィドが言った。

「お前もだ」


ダヴィドが去った。

エレズは席に残った。

デバイスをポケットにしまった。

スマートフォンを取り出した。

透に送った。

「手に入った。動く」

返信が来た。

透からではなかった。

エマからだった。

「記録、できました。いつでも送れます」


エレズは画面を見た。

エマの名前を見た。

絵馬。

今はなき良い思想の描いた絵。


窓の外で、地中海が光っていた。

太陽が、海を照らしていた。

同じ太陽だった。

奥多摩を照らした太陽と。

ユーフラテスを照らした太陽と。

テルアビブを照らす太陽と。

同じものだった。

ずっと、同じものだった。


エレズは立ち上がった。

カフェを出た。

テルアビブの街を歩いた。

地面を感じながら歩いた。

根を張るように歩いた。