三人は山を下りた。
奥多摩駅の近くの喫茶店に入った。
店主は何も聞かなかった。
コーヒーを三つ持ってきた。
それだけだった。
エレズは手帳を出した。
古い手帳だった。
ページを開いた。
「文書は、テルアビブにあります」
「組織の中ですか」とエマが聞いた。
「そうです。最上層のサーバーにあります。私のアクセス権限では、入れない場所です」
「では、どうやって」と透が聞いた。
「一人、知っている人間がいます。アクセス権限を持っている人間が」
「信頼できますか」
「わかりません。五年前までは、信頼できました」
「今は」
「確かめていません」
エマはコーヒーを一口飲んだ。
「その人に、連絡できますか」
「日本に来る前に、一度電話しました」
「何と言いましたか」
「日本に行く必要があるかもしれない、と言いました」
「返事は」
「わかった、と言いました」
透が言った。
「それだけで動ける人なんですね」
「そういう人間です」
エレズはコーヒーカップを両手で持った。
温かかった。
「問題は、時間です。停戦がいつ終わるか、わからない。次のフェーズが始まる前に、文書を外に出す必要があります」
「外に出して、どこへ」とエマが聞いた。
「メディアです。複数の国のメディアに、同時に送ります」
「それで、計画が止まりますか」
エレズは正直に言った。
「止まるかもしれない。止まらないかもしれない」
「でもやる」と透が言った。
「でもやります」
店主がカウンターから言った。
「もう一杯どうですか」
三人は顔を見合わせた。
透が笑った。
「いただきます」
コーヒーが来た。
店主は奥に引っ込んだ。
「私にできることがありますか」とエマが聞いた。
エレズは少し考えた。
「あります」
「何ですか」
「記録してください」
「記録」
「三人が知っていることを、全部。遺跡の地図。天の門の形。黙示録との対応。老人の話。透さんのブログ。あなたがユーフラテスへ行ったこと。全部です」
「なぜ私が」
「あなたは最初に気づいた人間だからです。エマさんが書いた記録は、文書よりも強いかもしれない」
エマは少し黙った。
「文書は、計画を証明する。でも私の記録は」
「人間が気づいた記録です」とエレズは言った。「計画があっても、気づく人間がいる。それを示せます」
エマは窓の外を見た。
六月の雨が、また降り始めていた。
静かな雨だった。
「わかりました」
透が言った。
「私は何をしますか」
エレズは透を見た。
「繋いでください」
「何を」
「全部を、繋いでください。私とエマさんを繋いだように。文書と記録を繋いでください。日本とイスラエルを繋いでください」
透は窓の外を見た。
雨を見た。
「間に立つ者ですね」
「老人が言った通りです」
透はうなずいた。
長い間、うなずいていた。
三人はコーヒーを飲み終えた。
立ち上がった。
店主に礼を言った。
店主は黙ってうなずいた。
外に出た。
雨だった。
エレズは傘を持っていなかった。
透がコンビニで傘を買ってきた。
「どうぞ」と渡した。
エレズは受け取った。
「ありがとう」
日本語で言った。
透が少し驚いた顔をした。
「日本語、話せるんですか」
「少しだけ」
「最初から話せばよかった」
「様子を見ていました」
透はまた笑った。
エマも、今度は笑った。
三人は駅の前で別れた。
エレズはテルアビブへ戻る。
透とエマは、それぞれの場所へ戻る。
「いつ連絡しますか」と透が聞いた。
「一週間以内に」とエレズは言った。
「わかりました」
エマがエレズを見た。
「信じます」と言った。
短かった。
でも、重かった。
エレズには、その重さがわかった。
「ありがとうございます」
電車が来た。
透とエマが乗った。
扉が閉まった。
電車が動いた。
エレズは一人、ホームに立っていた。
雨が降っていた。
透に買ってもらった傘を差していた。
コンビニの安い傘だった。
でも、十分だった。
スマートフォンを取り出した。
ヨナタンからまたメッセージが来ていた。
「進捗を報告しろ」
エレズは画面を見た。
長い間、見た。
それから打ち込んだ。
「対象は危険ではありません。監視を続けます」
送信した。
最後の嘘だと思った。
次に、別の番号に電話した。
五年ぶりに話した元同僚だった。
三回で出た。
「エレズか」
「動く時が来た」
「わかった」
「リスクが高い」
「知っている」
「それでもいいか」
電話の向こうで、少し間があった。
短い間だった。
「お前が動くなら、いい」
電話を切った。
ホームに一人立っていた。
雨が、傘を叩いていた。
規則正しい音だった。
遠くで、電車の音がした。
次の電車が来る音だった。
エレズは傘を持ち直した。
根を張る時だ、と思った。
三十年遅かったかもしれなかった。
でも、今日からだと思った。
今日からで、いいと思った。
電車が来た。
エレズは乗った。
成田へ向かった。
テルアビブへ向かった。
自分が三十年間いた場所へ、今度は別の目的で戻った。