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第一章

奥多摩の午後

透の話は、三時間続いた。

山下拓海は最初、笑おうとした。

笑えなかった。


社の前の地面は、冷たかった。

十一月の奥多摩だった。

バックパックを背もたれにして、拓海は座っていた。

向かいに透が座っていた。

三十代の男だった。

静かな目をしていた。

嘘をついている目ではなかった。


「信じられないのは、当然です」

透が言った。

「私も最初、笑おうとしました」

「笑えなかったんですか」

「笑えなかった」


拓海はバックパックを見た。

今日の予定は、ハイキングだった。

地図に載っていない道を歩いていたら、気づいたらここにいた。

そこに、この男がいた。

木箱の紙を渡された。

夢で見た文様だった。


夢で見た。

それだけで、拓海はここに留まることにした。

理由はそれだけだった。


「一つだけ聞いていいですか」

拓海は言った。

「どうぞ」

「透さんは、なぜ見知らぬ俺に、これを話すんですか」

透は少し間を置いた。

「あなたが来たからです」

「それだけですか」

「それだけです」

「地図に載っていない場所に、迷いながら来た」

「体が勝手に来た、と言いましたよね」

「はい」

「それだけで十分です」


拓海は空を見た。

木々の間から、青い空が見えた。

十一月にしては、暖かかった。


「俺、普通の人間なんですけど」

拓海は言った。

「そうですね」と透が言った。

「透さんみたいに、特別な血筋とか、そういうのじゃなくて」

「そうですね」

「だったら、なぜ俺なんですか」

透はまた、少し間を置いた。

「山下さん、好きな映画はありますか」

唐突だった。

「え」

「ジャンルでもいいです」

「ヒーロー映画、ですかね。アベンジャーズとか」

「なぜ好きですか」

拓海は考えた。

「かっこいいから。世界を救うから」

「自分も救いたいと思いますか」

「俺が?」

拓海は笑った。

今度は笑えた。

「普通の人間が世界を救えるわけないじゃないですか」

透は静かに言った。

「その考え方が、最も巧妙な支配です」


拓海の笑いが、止まった。


「どういう意味ですか」

「普通の人間には何もできない、と思わせること。それが支配の完成形です」

透は空を見た。

「ヒーローが世界を救う物語を、五十年間見せ続けた。映画で。アニメで。漫画で。なぜだと思いますか」

「エンタメだから」

「本当にそれだけですか」

拓海は黙った。

「ヒーローがいれば、自分は何もしなくていい。誰かがやってくれる。そう思わせることが、目的だとしたら」


風が吹いた。

杉が揺れた。


拓海は膝を抱えた。

「でも、普通の人間が何かできるとも思えない」

「思えない、と思わされている、かもしれない」

「同じじゃないですか」

「全然違います」

透はまっすぐ拓海を見た。

「思えない、は事実です。思わされている、は操作です」