春になった。
拓海はまた奥多摩に来た。
一人だった。
透に連絡しなかった。
一人で来たかった。
社の前に座った。
山を見た。
新緑だった。
様々な緑があった。
光が、木々の間から差し込んでいた。
スマートフォンを取り出した。
写真を撮ろうとした。
やめた。
ただ、見ていたかった。
風が吹いた。
杉が揺れた。
梢が、空を指していた。
拓海は目を閉じた。
耳を開いた。
鳥の声。
風の音。
水の音。
俺は今、ここにいる。
ここで、これを感じている。
これが観測だ。
目を開けた。
空が青かった。
スマートフォンを開いた。
ノートアプリを開いた。
書いた。
ソクラテスは言った。汝自身を知れ。
釈迦は言った。自灯明。
イエスは言った。神の国は汝らの中にあり。
三人とも、同じことを言っていた。
外に救世主を求めるな。
内側に、すでにあると。
俺は普通の人間だ。
でも、観測者だ。
毎日、選択している。
その選択が、波紋になる。
波紋は、見えなくなっても、消えない。
水の分子を、動かし続ける。
救世主は、あなた自身だ。
俺自身だ。
書き終えた。
社の記号を見た。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
螺旋の中心を見た。
中心から、外へ。
外から、また外へ。
どこまでも、広がっていく。
拓海は立ち上がった。
山を下りた。
駅へ向かった。
電車に乗った。
東京へ帰った。
翌朝、電車に乗った。
向かいの席に、若い女性が座っていた。
スマートフォンを見ていた。
画面の中に、ニュースが流れていた。
イランの話だった。
女性は画面をスクロールした。
拓海は女性を見た。
怒りではなかった。
責める気持ちでもなかった。
この人も、いつか気づく。
気づかないかもしれない。
でも、気づく人がいる。
必ずいる。
電車が駅に止まった。
女性が降りた。
新しい人が乗ってきた。
ドアが閉まった。
電車が動いた。
東京の朝が、始まった。
いつも通りの朝だった。
でも、確かに何かが動いていた。
見えないところで。
水の分子のように。
波紋は、続いていた。
了
拓海 ~救世主はあなた自身~
五十音百 著