一週間後。
拓海はまた奥多摩に来た。
今度は迷わなかった。
体が、覚えていた。
透が先に来ていた。
焚き火が起きていた。
コーヒーが二つ、用意されていた。
「来ましたね」
「来ました」
拓海は透の向かいに座った。
コーヒーを受け取った。
温かかった。
「先週から、ずっと考えていました」
拓海は言った。
「何を」
「ヒーローの話を」
透はコーヒーを飲んだ。
「結論は出ましたか」
「出ていません。でも一つだけ、気づいたことがあります」
「聞かせてください」
拓海は焚き火を見た。
火が揺れていた。
「俺、今まで世界のことを、自分には関係ないと思っていました。戦争も、政治も、環境も。でもそれって、関係ないんじゃなくて、関係ないと思いたかっただけかもしれない」
「なぜ」
「関係あると思ったら、何かしなきゃいけないから。でも何もできないから。だったら最初から関係ないと思っておいた方が、楽だから」
透は黙っていた。
拓海は続けた。
「でも、それって逃げてますよね」
「そうですね」
「じゃあどうすればいいんですか」
透は焚き火を見た。
「山下さん、二重スリット実験を知っていますか」
「理科で聞いたような」
「電子を二つの穴に向けて発射する実験です。観測していない時は、波として両方の穴を通る。でも観測すると、粒として一方の穴しか通らない」
「観測すると、結果が変わる」
「そうです。意識が、現実に影響する」
拓海は顔を上げた。
「それって」
「観測者が、結果を決める」と透は言った。「あなたが見ている世界は、あなたが観測することで、その形になっている」
「俺が見てるから、俺の世界になる?」
「もっと言えば、あなたが何を見るかで、世界が変わる」
拓海は空を見た。
星が出始めていた。
「それって、一人一人が神みたいな話ですよね」
透が拓海を見た。
少し、目が変わった。
「そう言ったのは、山下さんが初めてです」
「え」
「私はそこまで言葉にできなかった。でも、そうかもしれない」
焚き火が、パチンと鳴った。
「でも」と拓海は言った。「一人一人が神なら、なんで世界はこんなにぐちゃぐちゃなんですか」
「忘れているからです」
「何を」
「自分が観測者だということを」
風が吹いた。
杉の木が、揺れた。
「ソクラテスは言いました」と透は続けた。「汝自身を知れ、と」
「釈迦は言いました。自灯明、と。自分自身を灯明とせよ、と」
「イエスは言いました。神の国は汝らの中にあり、と」
拓海は三人の名前を、頭の中で並べた。
「全員、同じことを言ってる」
「そうです」
「外じゃなくて、内側に答えがあると」
「そうです」
「でも世界は、外に救世主を求め続けた」
「そうです」
拓海は焚き火を見た。
火が揺れていた。
オレンジと赤と、少しの青。
「じゃあ救世主って、誰なんですか」
透は静かに言った。
「あなた自身です」
拓海は黙った。
長い間、黙った。
「俺みたいな普通の人間が」
「普通じゃない人間はいません」
「でも」
「でも、ではなく」と透は言った。「普通の人間が、観測者になる。それが全てです」
拓海は手を見た。
普通の手だった。
何も特別ではない手だった。
でも今夜、少し違って見えた。