「物々交換、ないです」と誠は言った。「したことないです、大人になってから」
「そうだよね」と眞子は言った。「みんなそう」
眞子は弁当箱を閉めた。
「ねえ、マイナカード持ってる?」
「持ってます。作らないといけない雰囲気だったから」
「使ってる?」
「あんまり」
「政府がマイナカードを普及させたがってる理由、考えたことある?」
誠はコーラを飲んだ。
「便利にするため、じゃないんですか」
「誰にとって?」
誠は答えられなかった。
眞子は続けた。
「クレジットカードって、使うたびに手数料が引かれてるの、知ってる?」
「お店が払うやつですよね」
「そう。だいたい2%から3%。100円の買い物で、2円から3円がカード会社に流れる」
「まあ、少ないですね」
「日本全体の個人消費は、年間300兆円くらい」
誠は少し考えた。
「300兆円の3%って」
「9兆円」と眞子は言った。静かに、ただ言った。
誠は黙った。
9兆円。
毎年、9兆円が、気づかれないまま、どこかに流れている。
「現金をなくしたがってる理由、わかった?」と眞子は言った。
「現金で取引されちゃうと、手数料が取れないから」
「そう。それに現金取引は、他人には把握できない。だから邪魔なの」
誠はテーブルの上の缶コーラを見た。
コンビニで130円で買った。カードで払った。
その瞬間、何円かが、どこかに流れていた。
「マイナカードは」と誠は言った。「もっとひどいんですか」
「マイナカードはね」と眞子は言った。「お金だけじゃない。健康保険証、免許証、銀行口座、税金、医療記録。全部一つの番号に紐づける」
「それの何が」
「全部見える」と眞子は言った。「誰に何を買ったか、どこで何をしたか、いくら持ってるか。一枚の机の上に、全部並ぶ」
誠は少し黙った。
「でも、悪いことしてなければ、関係ないんじゃ」
眞子は誠を見た。
「田中くん、コナンくんの話、覚えてる?」
「俯瞰してみる、ですよね」
「そう。コナンくんはね、情報を持ってる人が強いって知ってる。犯人がなぜ強いかって、自分だけが真実を知ってるから」
誠は黙った。
「情報を全部持ってる側と、全部見られてる側。どっちが強い?」
答えは出なかった。
出なかったけど、わかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
立ち上がりながら、誠は言った。
「眞子さん、なんでそんなこと知ってるんですか。また答えてくれないと思うけど」
眞子は弁当袋を持って立ち上がった。
今日は、少しだけ答えた。
「昔、いろんなものを失ったから」
それだけ言って、先に社食を出た。