成田空港は、いつも通りだった。
人が歩いていた。アナウンスが流れていた。売店でサンドイッチを売っていた。
世界が普通に動いていた。
エマだけが、普通ではない場所へ向かっていた。
バグダッドまで、乗り継ぎで十八時間だった。
機内で眠れなかった。
窓の外は暗かった。
ノートを開いた。
透のブログから書き写した言葉を、また読んだ。
「星座は地上に写される。古代人はそれを知っていた。現代人は忘れている」
忘れている。
エマは窓の外を見た。
雲の上に、星があった。
オリオンだった。
三つ星が、はっきり見えた。
バグダッドの空港は、思ったより普通だった。
戦争の匂いはなかった。
少なくとも、空港には。
現地のガイドが待っていた。
四十代の男性だった。英語が話せた。日本人の依頼は珍しいと言った。
村の名前を見せた。
男性の顔が、少し変わった。
「その村は、遠いです」
「行けますか」
「行けます。でも、なぜその村へ」
「人を探しています」
男性は少し考えた。
それから、うなずいた。
「わかりました」
バグダッドから車で南へ向かった。
砂漠だった。
地平線が、果てしなかった。
日本にはない景色だった。
でもエマには、初めて来た気がしなかった。
夢で見た景色に、似ていた。
三時間走ったところで、川が見えた。
ガイドが言った。
「ユーフラテスです」
エマは窓に顔を近づけた。
広かった。
茶色がかった水が、ゆっくり流れていた。
でも。
「水が、少ない」
「昔はもっとありました」とガイドが言った。「今は、半分以下です」
半分以下。
枯れてしまった。
黙示録の言葉が、頭の中で鳴った。
村に着いたのは夕方だった。
小さな村だった。
泥でできた家が並んでいた。
子供たちが走り回っていた。
ガイドが村人に話しかけた。
アラビア語だった。エマにはわからなかった。
しばらして、ガイドが振り返った。
「日本人が来たことがあるか、聞きました」
「いましたか」
「二年前に、若い男が来たと言っています」
エマの心臓が跳ねた。
「今も、いますか」
ガイドがまた話しかけた。
村人は首を振った。
それから、何か言った。
ガイドの顔が、少し曇った。
「どうしました」とエマは聞いた。
「その男は、村の外れに住む老人に会いに来たと言っています」
「老人?」
「この辺りでは有名な人らしいです。色々なことを知っている、と。でも」
「でも?」
「その老人は、去年亡くなったそうです」
沈黙があった。
夕風が吹いた。
ユーフラテスの方から来る風だった。
乾いていた。
エマは村の外れを見た。
砂漠の向こうに、夕日が沈んでいた。
オレンジと赤と、少しの紫。
どこまでも続く空だった。
「老人が住んでいた場所へ、行けますか」
ガイドは村人に聞いた。
村人はうなずいた。
村の外れに、小さな家があった。
誰もいなかった。
でも、鍵はかかっていなかった。
ガイドが村人に許可を取った。
エマは中に入った。
薄暗かった。
質素な部屋だった。
本が積んであった。
アラビア語の本。古い本。
壁に、何かが貼ってあった。
紙だった。
古い紙に、記号が描かれていた。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
奥多摩の祠と、まったく同じ記号だった。
エマはその紙の前に立った。
日本の山奥の祠と、ユーフラテスのほとりの村。
同じ記号が、あった。
透はここへ来た。
この記号を見た。
この老人に会った。
そして、何を知ったのか。
部屋の隅に、小さな木箱があった。
エマはしゃがんだ。
蓋を開けた。
中に、紙が一枚あった。
日本語だった。
エマは息を飲んだ。
読んだ。
「エマへ」