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第九章

その人

翌朝、航空券のサイトを閉じた。

馬鹿げている。

やっぱりそう思った。

イラクへ行く理由が、夢とブログと、壁の地図だけだった。

それは理由とは言えなかった。


その週末、気分転換に近所の古本屋へ行った。

調査を始めてから、本を読む余裕がなかった。

でも久しぶりに、関係のない本が読みたかった。

小説でも買おうと思った。


棚を眺めていた。

隣に、人が来た。

気にしなかった。

しばらくして、その人が本を抜いた。

エマの視界の端に、タイトルが見えた。

メソポタミアの星図。

エマは固まった。

隣を見た。

五十代くらいの女性だった。

地味な服装。眼鏡。小柄。

ごく普通の人だった。


「それ、メソポタミアの星座の本ですか」

声をかけていた。

自分でも驚いた。

女性は顔を上げた。驚いた様子はなかった。

「そうです。珍しいですね、興味があるんですか」

「少し、調べていて」

「どんなことを?」

エマは一瞬躊躇した。

でも、なぜか話せる気がした。

「天の門、という星座を」

女性の目が、変わった。

驚きではなかった。

むしろ、待っていたような目だった。


古本屋を出て、近くの喫茶店に入った。

自然にそうなった。

女性は鞄から手帳を出した。古い手帳だった。

「天の門に興味を持った理由を、聞いてもいいですか」

エマは話した。

イランのニュース。黙示録。地図の青い丸。星座との一致。

話しながら、初めて声に出して言う言葉ばかりだった。

誰にも話せなかったことを、初対面の女性に話していた。

女性は途中で遮らなかった。

メモも取らなかった。

ただ、静かに聞いていた。


エマが話し終わると、女性はコーヒーを一口飲んだ。

それから言った。

「透から、聞いていました」

エマの息が止まった。

「透を、知っているんですか」

「彼の祖母の、友人でした」


女性は手帳を開いた。

古い紙が挟んであった。

エマに差し出した。

螺旋と、星と、見たことのない文様。

奥多摩の祠で見た、あの記号だった。

「これの意味を、透は探しに行きました」

「どこへ」

「ユーフラテスのほとりの村です。そこに、読める人がいると言って」

「今も、そこにいるんですか」

女性は少し黙った。

「わかりません。二年前に一度だけ、短いメッセージが来ました。それ以降は、何も」


エマはテーブルの上の紙を見た。

記号を見た。

「その村の名前を、教えてもらえますか」

女性は手帳にペンを走らせた。

破って、エマに渡した。

村の名前だった。

ユーフラテス川沿いの、イラクの小さな村だった。


喫茶店を出た。

空は曇っていた。

エマは紙を手に持ったまま、しばらく立っていた。

馬鹿げている、とは思わなかった。

今回は、思わなかった。

スマートフォンを取り出した。

航空券のサイトを開いた。

東京からバグダッドへの便。

今度は、検索ボタンを押した。