翌朝、航空券のサイトを閉じた。
馬鹿げている。
やっぱりそう思った。
イラクへ行く理由が、夢とブログと、壁の地図だけだった。
それは理由とは言えなかった。
その週末、気分転換に近所の古本屋へ行った。
調査を始めてから、本を読む余裕がなかった。
でも久しぶりに、関係のない本が読みたかった。
小説でも買おうと思った。
棚を眺めていた。
隣に、人が来た。
気にしなかった。
しばらくして、その人が本を抜いた。
エマの視界の端に、タイトルが見えた。
メソポタミアの星図。
エマは固まった。
隣を見た。
五十代くらいの女性だった。
地味な服装。眼鏡。小柄。
ごく普通の人だった。
「それ、メソポタミアの星座の本ですか」
声をかけていた。
自分でも驚いた。
女性は顔を上げた。驚いた様子はなかった。
「そうです。珍しいですね、興味があるんですか」
「少し、調べていて」
「どんなことを?」
エマは一瞬躊躇した。
でも、なぜか話せる気がした。
「天の門、という星座を」
女性の目が、変わった。
驚きではなかった。
むしろ、待っていたような目だった。
古本屋を出て、近くの喫茶店に入った。
自然にそうなった。
女性は鞄から手帳を出した。古い手帳だった。
「天の門に興味を持った理由を、聞いてもいいですか」
エマは話した。
イランのニュース。黙示録。地図の青い丸。星座との一致。
話しながら、初めて声に出して言う言葉ばかりだった。
誰にも話せなかったことを、初対面の女性に話していた。
女性は途中で遮らなかった。
メモも取らなかった。
ただ、静かに聞いていた。
エマが話し終わると、女性はコーヒーを一口飲んだ。
それから言った。
「透から、聞いていました」
エマの息が止まった。
「透を、知っているんですか」
「彼の祖母の、友人でした」
女性は手帳を開いた。
古い紙が挟んであった。
エマに差し出した。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
奥多摩の祠で見た、あの記号だった。
「これの意味を、透は探しに行きました」
「どこへ」
「ユーフラテスのほとりの村です。そこに、読める人がいると言って」
「今も、そこにいるんですか」
女性は少し黙った。
「わかりません。二年前に一度だけ、短いメッセージが来ました。それ以降は、何も」
エマはテーブルの上の紙を見た。
記号を見た。
「その村の名前を、教えてもらえますか」
女性は手帳にペンを走らせた。
破って、エマに渡した。
村の名前だった。
ユーフラテス川沿いの、イラクの小さな村だった。
喫茶店を出た。
空は曇っていた。
エマは紙を手に持ったまま、しばらく立っていた。
馬鹿げている、とは思わなかった。
今回は、思わなかった。
スマートフォンを取り出した。
航空券のサイトを開いた。
東京からバグダッドへの便。
今度は、検索ボタンを押した。