手が震えた。
エマという名前を、透は知らないはずだった。
会ったことはない。
話したこともない。
でも、そこに書いてあった。
エマへ。
読んだ。
はじめまして。
こんな形で手紙を書くことになるとは思っていませんでした。
でも老人は言いました。必ず来る、と。
女性だと言いました。
絵馬という名前だと言いました。
僕には確かめる術がありませんでした。でも老人が言うことは、これまで一度も外れなかった。だからここに書きます。
僕が奥多摩の祠で見た記号を、あなたも見たはずです。
同じ記号が、ここにもありました。
世界のいくつかの場所に、同じ記号が残されています。
老人はそれを、地図だと言いました。
どこへの地図か。
老人はこう言いました。
「忘れた場所への地図だ」と。
イランで起きていることに、あなたは気づいているはずです。
僕も気づきました。でも二年前の僕には、まだ早かった。
老人に言われました。
「お前ではない。お前の次に来る者だ」と。
だから僕はここを離れました。
でも、この手紙を残しました。
記号の意味を、老人から聞きました。
全部は書きません。
書いてしまうと、意味がなくなる気がするから。
でも一つだけ書きます。
記号の中心にある螺旋は、問いではありません。
答えです。
何の答えか。
あなたはもう、知っています。
知っていて、忘れているだけです。
最後に一つ。
老人は死ぬ前にこう言いました。
「ハルマゲドンは場所ではない。状態だ」と。
僕にはまだ、その意味がわからない。
あなたにはわかるかもしれない。
山路透
エマは手紙を持ったまま、動けなかった。
部屋の中が、静かだった。
外で子供の声がした。
ユーフラテスの風が、窓の隙間から入ってきた。
ハルマゲドンは場所ではない。状態だ。
エマは目を閉じた。
暗闇の中で、奥多摩の朝が見えた。
白があった。ピンクがあった。朝露が光っていた。
あの朝、原っぱで感じたこと。
言葉にならなかったこと。
頭ではなく、もっと深い場所で理解していたこと。
わかった。
ハルマゲドンは戦場ではなかった。
地名でもなかった。
人間が、自分と他人を別のものだと思い続けること。
それがハルマゲドンだった。
母が子を思う。
人も動物も昆虫も植物も同じ。
それを忘れた状態が、戦争だった。
預言の成就を信じて動く人たちも。
計画書通りに世界を動かそうとする人たちも。
みんな、忘れているだけだった。
エマは目を開けた。
壁の記号を見た。
螺旋の中心を見た。
答えが、そこにあった。
ずっとそこにあった。
ガイドが入り口から声をかけた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
エマは手紙を丁寧に折った。
木箱に戻した。
それから、また取り出した。
やっぱり持っていくことにした。
外に出た。
夕日が、ユーフラテスの水面を照らしていた。
茶色い水が、オレンジに光っていた。
川は確かに少なかった。
でも、流れていた。
まだ、流れていた。
エマはスマートフォンを取り出した。
透のブログを開いた。
コメント欄は閉じられていた。
でも問い合わせフォームの代わりに、メールアドレスが一つだけあった。
今まで気づかなかった。
いや、気づく必要がなかったのかもしれない。
今日まで。
メールを書いた。
短く書いた。
透さん、手紙を読みました。
老人の言っていた意味が、わかった気がします。
会いたいです。
絵馬
送信した。
ユーフラテスの風が吹いた。
エマは川を見た。
遠くで、子供が川に石を投げていた。
波紋が広がった。
どこまでも、広がった。