東京、秋
二度目に来たとき、サン・ジェルマンは予約を入れていた。
前回は突然だった。在留資格の申請。ごく普通の書類仕事として片付けた。でも今回は違った。電話ではなく、手書きの手紙が届いた。便箋は厚く、インクは黒く、日付だけが妙に古風な書き方をしていた。
田辺麻衣様。改めてご相談したいことがございます。お時間をいただけますか。——S.G.
S.G.、とイニシャルだけ書いてあった。住所も電話番号もなかった。でも麻衣には、誰からかすぐにわかった。
返事の書き方がわからなかったので、事務所の窓を開けておいた。なぜそうしたのかは、説明できなかった。
「今日のご依頼は」と麻衣は言った。お茶を出しながら。煎茶にした。なぜかそう思った。
「記録を残したい」と伯爵は言った。
「記録」
「わたしが見てきたこと。聞いてきたこと。感じてきたこと。それを、きちんとした形にしたい」
麻衣はメモ帳を開いた。「どんな形を想定していますか。書籍ですか。映像ですか。それとも——」
「あなたに任せます」と伯爵は言った。
麻衣はペンを止めた。「わたしは行政書士です。記録の専門家ではありません」
「あなたは書類にする人でしょう」と伯爵は言った。「誰かが選んだことを、世界に届く形にする人でしょう。それでいい」
麻衣は伯爵を見た。年齢のわからない目。でも今日は、その目の奥に何か違うものがあった。疲れ、ではない。もっと静かな何か。終わりを知っている人間の持つ、静けさのようなものだった。。
「なぜ今ですか」と麻衣は聞いた。
伯爵は少し間を置いた。
「まもなく、終わる気がしています」
部屋が静かになった。窓の外で、銀杏の葉が一枚、落ちた。
「わかりました」と麻衣は言った。メモ帳に何かを書いた。依頼内容、と書くべき欄に、ただ一言書いた。
記録。
「一つだけ聞いていいですか」と麻衣は言った。
「どうぞ」
「その記録は、誰かに読んでほしいですか。それとも、残ればそれでいいですか」
伯爵はしばらく考えた。煎茶を一口飲んだ。
「わたしが、ただ、残したいから残す。それだけです」
麻衣はその言葉を聞いて、少し笑った。
「それだけですか」
「それ以上の理由が、必要ですか」
必要ない、と麻衣は思った。したいからする——それは、選ぶということの、一番正直な形だから。
「では」と麻衣は言った。「話を聞かせてください。最初から。あなたが覚えている、一番古い記憶から」
伯爵は頷いた。
「古い記憶から、というのは」と彼は言った。「どのくらい古くてもいいですか」
「どのくらい古いですか」
伯爵は窓の外を見た。銀杏の木を見た。黄色く色づいた葉を、少しの間だけ見た。
「大洪水より、前の話から始まります」
麻衣はメモ帳に、静かに書いた。
大洪水以前。
ペンを置いた。
「来週、同じ時間にいらしてください」と麻衣は言った。「お茶を用意しておきます」
伯爵は立ち上がった。コートを羽織った。扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「煎茶がいい。今日のは、よかった」
扉が閉まった。
麻衣はしばらく、閉まった扉を見ていた。それからメモ帳を見た。
記録。大洪水以前。煎茶。
行政書士になって、一番奇妙な依頼書だった。
でも、一番正直な依頼書でもあった。