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第一章

大洪水以前

東京、秋 / 時の始まり

翌週、伯爵は時間通りに来た。

麻衣は煎茶を用意していた。同じ茶葉を買った。同じ温度で淹れた。なぜそこまでしたのか、自分でもわからなかった。ただ、そうしなければならない気がした。

伯爵は椅子に座って、茶を一口飲んだ。目を閉じた。少しの間、そのままでいた。

「同じ茶ですね」と彼は言った。

「同じものを買いました」

「ありがとう」

それだけ言って、伯爵は窓の外を見た。銀杏の葉がまた一枚、落ちた。

「どこから話しますか」と麻衣は言った。メモ帳を開いて。ペンを持って。

「最初から」と伯爵は言った。「わたしが覚えている、最初から」


「わたしの父は、人間ではありませんでした」

伯爵は静かに、でも迷いなく言った。

「ネフィリム、と後の時代は呼びます。天と地の間に生きた者たち。人間の女性との間に子をなした。わたしはその血を引いています。だから——老いることがない。人間の何倍もの時間を生きることができる」

麻衣はメモを取った。手は震えなかった。不思議なほど、震えなかった。この話を、どこかで知っていた気がした。皮膚として。

「長命、というのは」と麻衣は確認した。行政書士として。事実を正確に把握するために。

「老いが極めて遅い。病みにくい。でも不死ではない。大きな力で、終わらせることはできる。そして——血が薄まれば、その特性も薄まっていく」

「では今、まもなく終わると言ったのは」

伯爵は少し間を置いた。

「ネフィリムの血を引く者は、わたしだけではありません。でも世代を重ねるほど、人間の血が増えていく。わたしの中のネフィリムの血は、もう残り少ない。老いが遅いという特性も、宇宙の声を聞く力も——少しずつ、薄れてきている。炎が消える前に、少しだけ大きくなるように——今はまだ、ここにいる。でも、長くはない」

麻衣は書いた。血。薄くなっている。炎が消える前。

行政書士のメモ帳に、世界で一番奇妙な記録が積まれていった。


「大洪水の前、世界はどうでしたか」と麻衣は聞いた。

伯爵は目を閉じた。遠くへ行くような、静けさだった。

「緑でした」と彼は言った。

麻衣の手が、一瞬止まった。

「ナイルの話ではありません。もっと前の話です。今は砂漠と呼ばれている場所が、すべて緑だった時代。山も、谷も、今は海の底にある土地も——全部、生きていた。人間はまだ少なくて、大地の方が広かった」

「その時代に、あなたはいたんですか」

「生まれました。その時代に」

麻衣はペンを持ったまま、少し考えた。「生まれた場所は、今どこですか」

「海の底です」と伯爵は静かに言った。「大洪水で、沈みました」

部屋が静かになった。東京の秋の午後の音だけがあった。遠くで車が走る音。風が窓を鳴らす音。それだけ。

「その場所に、名前はありましたか」と麻衣は聞いた。

伯爵は目を開けた。麻衣を見た。

「ありました。でも今の言葉に訳せない名前です。強いて言えば——光の場所、という意味でした」

麻衣はメモ帳に書いた。

出生地:光の場所。現在:海底。

書いてから、少し笑いそうになった。でも笑わなかった。これは正確な記録だ。笑う場面ではない。


「一番古い記憶は何ですか」と麻衣は聞いた。

伯爵はまた目を閉じた。今度は長かった。一分ほど、そのままでいた。麻衣は待った。急かさなかった。数千年分の記憶を探っているのだから、時間がかかって当然だ。

「光です」と伯爵はやがて言った。「朝の光。緑の上に落ちる、最初の光。母がわたしを抱いて、外に出た。その光を、わたしに見せた。それが最初の記憶です」

「お母さんは、人間だったんですね」

「そうです」

「その方の名前は」

伯爵は少し間を置いた。「今の言葉では発音できません。でも意味は——水を運ぶ女、という名前でした」

麻衣は書いた。母:水を運ぶ女。人間。

そしてふと思った。

ナイルは水を運ぶ。川は奪うのではなく、運ぶ。師がネフェルウに言った言葉。水を運ぶ女が産んだ子が、数千年後の東京で、煎茶を飲んでいる。

全部、つながっている。

麻衣はその考えを、メモ帳には書かなかった。でも胸の中に、静かに置いておいた。


一時間が経った頃、伯爵は話を止めた。

「今日はここまでにします」と彼は言った。

「わかりました」と麻衣は言った。「来週、続きを」

「続きは長いですよ」と伯爵は言った。少し、笑った。数千年ぶりに笑ったような、そういう笑い方だった。「何年かかるかわかりません」

「時間はあります」と麻衣は言った。

伯爵は立ち上がった。コートを羽織った。扉に向かいながら、今日は振り返った。

「田辺さん」

「はい」

「あなたがこの仕事を引き受けてくれた理由を、聞いてもいいですか」

麻衣は少し考えた。

「わたしも、ただ、したいからした。それだけです」

伯爵は静かに頷いた。

扉が閉まった。

麻衣はメモ帳を見た。今日だけで、十ページ以上が埋まっていた。光の場所。海底。水を運ぶ女。炎が消える前。

窓の外で、最後の銀杏の葉が、落ちた。


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