東京、冬 / 大洪水以前
三度目の訪問から、伯爵は少し変わった。
最初の二回は、慎重だった。言葉を選んで、少しずつ話した。でも三度目からは——話が、流れるようになった。堰が外れたように。長い時間溜めてきたものが、出口を見つけたように。
麻衣はメモを取り続けた。手が追いつかない日もあった。でも追いつかなくていい、と途中から思うようになった。言葉にならない部分は、体が覚えている。皮膚が受け取っている。
「宇宙には歌が流れています」と伯爵はある日、言った。
いつもより静かな声だった。外は冬の雨だった。
「わたしが生まれた時代、人間はまだそれを聞くことができた。今よりずっと、薄かったから——肉体と宇宙の間の膜が」
「どんな歌ですか」と麻衣は聞いた。
「言葉のある歌ではありません」と伯爵は言った。「振動です。22の意識体が、互いに交流するときの振動。それが宇宙に満ちている。今もそうです。ただ、聞こえなくなっただけで」
麻衣はメモ帳に書いた。22の意識体。振動。今も流れている。
「22、という数字には意味がありますか」
伯爵は少し考えた。「富士は晴れたり日本晴れ、という言葉を知っていますか」
麻衣は顔を上げた。「知っています」
「22は晴れたり、2本晴れ。二本の柱。天と地をつなぐ二本の線。富士山を横から見たときの形——その意味が、この国には残っている」
麻衣はペンを止めた。窓の外の雨を見た。
二本の線。天と地。
「その22の意識体の中に」と伯爵は続けた。「神と呼ばれる存在がいました。22の意識のかけらを、すべて内包していた。そこに——23番目の意識体が、申し出てきた」
「23番目」
「愛です」と伯爵は静かに言った。「愛は別の意識体でした。22の外にいた。でも共同創造したいという願いを持って、神に申し出た。わたしも加わりたい、と」
「神は受け取ったんですか」
「受け取りました。23の意識体となって——初めて物質化に成功した。地球が生まれた。人間が生まれた」
麻衣はゆっくりと書いた。22+愛=23。物質化。地球。人間。
「愛がなければ、地球は生まれなかった」
「そうです」と伯爵は言った。「愛は水のようなものです。どこへでも流れる。どこにでもある。堰き止めようとしても、形を変えて、必ず流れていく」
麻衣はその言葉を聞いて、ペンを置いた。
ナイルの話を思い出した。川は奪うのではない、運ぶのだ。瀬織津姫が背を折って、穢れを川へ流し続けた話を思い出した。二度封印されても、消えなかった女神の話を。
愛は水だ。だから消えない。
「ウォッチャーのことを、話してもいいですか」と伯爵は言った。
少し、間があった。この話をするのに、何かを必要としているような間だった。
「どうぞ」と麻衣は言った。
「22の意識体の中に——嫉妬した者たちがいました。神が物質化に成功するのを見て、自分たちも創造したいと願った。懸命に試みた。星は、作れた。生命体も、作れた。でも——」
「でも?」
「循環が、作れなかった」と伯爵は言った。声が、少し低くなった。「狼が森を管理して、草食動物の数を調え、木が実り、川が流れ、氾濫が土を運び、緑が育つ——そういうサイクルを、持った世界が作れなかった。生命は生まれても、繁殖し続けない。循環が続かない。いつか必ず、尽きる世界しか作れなかった」
「なぜ」
「愛を持っていなかったから」と伯爵は言った。「22では足りなかった。23番目が必要だった。でも彼らは——愛が申し出てくる前に、創造しようとした。だから——永続する循環が生まれなかった」
「それがウォッチャーですか」
「そうです。完全な創造ができなかった者たちが、神が作った地球にやってきた。人間の中に神のかけらがあるから——近づいた。交わった。その子孫が、ネフィリムです。わたしの父の血統が、そこにある」
部屋が静かになった。雨の音だけがあった。
麻衣は伯爵を見た。年齢のわからない顔。でも今日は、その顔の奥に——長い、長い切なさが見えた。
「あなたのお父さんは」と麻衣は静かに聞いた。「完全な創造を、したかったんですね」
伯爵は少しの間、黙っていた。
「ただ——誰かと、喜びを分かち合いたかっただけだと、わたしは思っています。愛を知らなかっただけで、望んでいたものは、愛と同じだった。循環する世界を——誰かと一緒に、見たかっただけだったのかもしれない」
「エジプトの壁画を知っていますか」と麻衣は聞いた。
伯爵は顔を上げた。
「ヌトとゲブの壁画です。天空の女神ヌトが体を弓なりに折り曲げて、地上の男神ゲブへ手を伸ばしている」
「知っています」と伯爵は言った。「見ていましたから」
麻衣は息を飲んだ。「引き離される前を、見ていたんですか」
「引き離された瞬間も、見ていました」と伯爵は静かに言った。「父シューが二人の間に入って、ヌトを天へ押し上げた。ゲブが手を伸ばした。ヌトも、背を折って、手を伸ばした。でも届かなかった」
「その後、神官が歌ったんですね」と麻衣は言った。
伯爵が、静かに頷いた。
「天と地の間に空間ができた。その空間を、歌が満たしていた。神官が塔の上で宇宙の振動を受け取って、声に変えて、地上に降ろした。その瞬間だけ——天と地がまた、つながった」
ネフェルウのことだ、と麻衣は思った。あの神官は、宇宙の歌を受け取って、地上に届けていた。一人で歌っていたのではなかった。22の意識体と、そして愛と——共同創造していた。
だから言葉にできなかった。宇宙の歌を、人間の言葉に押し込めることは——できなかった。
「瀬織津姫を知っていますか」と麻衣は聞いた。
伯爵はまた、顔を上げた。今度は少し、驚いたような目をした。
「知っています」
「ヌトと、同じ存在ですか」
伯爵は長い間、考えた。窓の外の雨を見た。
「同じ流れです」とやがて言った。「名前は違う。時代も違う。でも——背を折って、水を流し続ける。愛は水のようにどこへでも流れると言ったでしょう。ヌトも、瀬織津姫も、その流れの、形です」
「封印されても、消えなかった」
「消えるはずがない」と伯爵は言った。「水は消えない。形を変えるだけです」
その日の最後に、伯爵は言った。
「田辺さん」
「はい」
「あなたが人の選択を書類にする仕事——それも、同じことだと思っています」
麻衣はペンを持ったまま、伯爵を見た。
「誰かが選んだことを、世界へ流す。形を与えて、届かせる。それは——ヌトが手を伸ばすことと、瀬織津姫が水を流すことと、神官が歌を降ろすことと——同じ流れの中にある」
麻衣はしばらく、何も言えなかった。
それからメモ帳に、一言だけ書いた。
愛は水だ。
「一つだけ」と麻衣は言った。「ずっと気になっていたことがあります」
「どうぞ」
「ネフェルウは——語れなかったのではなく、語らなかった、と言いましたね。でも本当は——語れなかったのではないですか。言葉が足りなかったのではなく、語ること自体が、できなかった」
伯爵は麻衣を見た。少し、驚いたような目をした。
「続けてください」と彼は言った。
「愛を言葉で説明しても、愛はわからない」と麻衣は言った。「水を言葉で説明しても、喉の渇きは癒えない。本質というのは——分解した瞬間に、消えるものなのかもしれない。細胞を一つずつ解剖しても、その中に『生きること』は見つからないように」
伯爵はしばらく、窓の外の雨を見ていた。
「神が言っていました」とやがて言った。「解析しないでほしい、と。分析しないでほしい、と。わたしは長い間、その意味を考えていました。隠したいものがあるのか、と思っていた時期もあった。でも——隠すものなど、なかったのです」
「物質ではないから」と麻衣は言った。
「そうです」と伯爵は静かに言った。「アークの箱の中に何があるのか、と人間は長い間探してきた。でも——物質ではないものは、どこを探しても見つからない。本質は、分解すればするほど、遠ざかっていく。愛を解いても、愛は理解できない。それと同じことです」
「だからわたしは、愛を水にたとえた」と伯爵は続けた。 「水が流れる仕組みは説明できる。高低差があるから、重力があるから、と言える。でも——ナイルが黒い土をあの大地に運ぶ意味は、そこには書かれていない。なぜその氾濫が、あの緑を生むのか。なぜあの土が、あの命を育てるのか。仕組みを解いても、意味は出てこない。愛も、同じです。説明できる。でも説明した瞬間、それは仕組みであって、愛ではなくなっている」 麻衣はペンを置いた。
ネフェルウが語らなかったのは——権力への抵抗でも、言葉の不足でもなかった。語った瞬間に、それは本質ではなくなる。だから語れなかった。正確には——語ることが、できなかった。
「それでも」と麻衣は言った。「あなたは今、わたしに語っています」
「そうです」と伯爵は言った。「小さくなることを、引き受けながら。完全には届かない。でも——届く部分がある。水は、どんな形の器にも入る。言葉という器に入れれば、その形になる。本来の大きさではない。でも——流れていく」
それからメモ帳に、一言だけ書いた。
語れないものを、それでも流す。それが、愛と同じやり方だ。
窓の外で、雨がまだ降っていた。
東京の冬の雨。どこへでも流れていく、雨。