東京、冬 / 大洪水の夜
四度目の訪問の日、伯爵は少し遅れてきた。
初めてのことだった。麻衣が煎茶を淹れて待っていると、十五分ほどして扉が開いた。いつもと同じコートを着ていたが、髪が少し濡れていた。雨ではなく——雪だった。今シーズン初めての雪が、東京に降り始めていた。
「雪ですね」と麻衣は言った。
「久しぶりです」と伯爵は言った。
「今年初めてですよ」
「わたしには」と伯爵は静かに言った。「何千回目かわかりません」
麻衣は煎茶を出した。伯爵は両手で茶碗を包んだ。その手を、麻衣はじっと見た。数千年分の雪を知っている手。でも今日は、少し震えているように見えた。
「今日は」と伯爵は言った。「大洪水の話をします」
「前の日まで、何も変わらなかった」と伯爵は言った。
目を閉じていた。茶碗を両手で持ったまま。
「朝の光が、緑の上に落ちていた。母が庭に出て、水を運んでいた。いつもの朝でした。でも空の色が、少し違った。わたしにはわかった。父の血がそう言っていた——今夜、何かが来る、と」
「お母さんに言いましたか」と麻衣は聞いた。
「言いました」と伯爵は言った。「でも母は笑った。心配性だ、と言った。夕飯の支度をしながら、笑っていた」
雪だけがしとしとと降っていました。
「夜中に、音がしました。最初は遠くで。地の底から来るような、低い音。次に空から。雨ではなかった。もっと大きなものが、落ちてくるような音。そして——水が来た」
伯爵は少し間を置いた。
「速かった。川が溢れるのとは違う。空と地の両方から、同時に来た。神官たちが言っていた通りでした——天の窓が開き、地の泉が裂ける、と」
「お母さんは」
伯爵は長い間、答えなかった。
「わたしを高いところへ押し上げた」とやがて言った。「建物の一番高い場所へ。自分はそこまで登れなかった。水が早すぎた。わたしの手を握って——離した」
麻衣はペンを置いた。メモを取らなかった。取れなかった。
「最後に母が言った言葉を、覚えていますか」と麻衣は静かに聞いた。
「覚えています」と伯爵は言った。「今の言葉に訳せば——流れていく、という意味の言葉でした。怖がっていなかった。ただ、そう言った。まるで水になるのが、当然のことのように」
水を運ぶ女が、水になった。
麻衣はそう思った。でも口には出さなかった。
「光の場所が沈むのを、見ましたか」と麻衣は聞いた。
「見ました」と伯爵は言った。 「高いところから見ていました。水は緑を飲み込み、建物を飲み込み、人々を飲み込みました。そして、最後に——光の場所そのものが、水の中に消えました。
「どのくらい、そこにいましたか」
「水が引くまで。何日だったか、数えていなかった。数える意味を感じなかった」
「水が引いた後は」
伯爵は目を開けた。窓の外の雪を見た。
「泥だけがあった。黒い泥。でも——その泥の中から、緑が出てきた。最初は小さな芽だった。それが広がっていった。水が運んできた土から、新しい緑が生まれた」
麻衣は息を吸った。
ケメト。黒い大地。ナイルが運んでくる土。氾濫の後に育つ緑。
大洪水の後も——同じことが起きていた。水は奪ったのではなかった。水は、運んでいたのだ。
「お母さんも」と麻衣はゆっくり言った。「運ばれていったんですね。水として。どこかへ」
伯爵はしばらく、窓を見ていた。
「そう思うようにしました」とやがて言った。「何千年もかけて。やっと、そう思えるようになった」
帰り際、伯爵はいつものようにコートを羽織った。
扉に向かいながら、今日は立ち止まった。振り返らずに言った。
「田辺さん。一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは——何かを失ったとき、どう思いましたか」
麻衣は少し考えた。自分の胸を触った。何もない場所。でも今は、その空白が——空間のように感じる。
「最初は、奪われたと思いました」と麻衣は言った。「でも今は——運ばれたのかもしれない、と思っています。どこかへ。わたしの知らない場所へ」
伯爵は振り返った。
その顔に、数千年ぶりの何かがあった。
「ありがとう」と彼は言った。「今日初めて——記録してよかったと思いました」
扉が閉まった。
麻衣はメモ帳を開いた。今日はほとんど白いままだった。でも最後のページに、一言だけ書いた。
水は、運ぶ。母も、臓器も、光の場所も——どこかへ。
窓の外で、雪がまだ降っていた。
東京の雪は、すぐ溶ける。でも溶けた水は、どこかへ流れていく。
愛は水だ。だから消えない。