東京、冬 / 古代エジプト
五度目の訪問の日、伯爵は珍しく自分から話し始めた。
麻衣が煎茶を出す前に、コートを脱ぎながら言った。
「今日はエジプトの話をします。あなたが興味を持つと思って」
麻衣は少し止まった。「わたしが興味を持つ、とわかっていたんですか」
「ずっと見ていましたから」と伯爵は静かに言った。「あなたの、今世だけではなく」
部屋に、冬の光が差し込んでいた。雪は溶けて、今日は晴れていた。
「大洪水の後、長い時間が経ちました」と伯爵は言った。「緑が戻り、人間が増え、文明と呼ばれるものが生まれた。わたしはその間、歩き続けた。一つの場所にはとどまれなかった。年を取らないことが、すぐにバレてしまうから」
「エジプトへはいつ行きましたか」
「ナイルが呼んでいた」と伯爵は言った。「母の最後の言葉——流れていく——とナイルの流れが、同じ声をしていた。だから行った」
麻衣はメモ帳に書いた。ナイル。母の声。流れていく。
「エジプトには、神殿がありました。神官たちが歌う神殿。わたしは毎朝、その神殿へ通った。歌を聞くために」
「宇宙の振動を、受け取るために」
「そうです」と伯爵は言った。「大洪水以前、わたしはまだ子供だった。宇宙の歌を直接聞けた時代を、かろうじて知っている。でも洪水の後、その声が遠くなってしまった。人間の肉体が、厚くなったから。でもエジプトの神官だけが——まだ聞けていた」
麻衣の手が、止まった。
「その神官の中に」と伯爵は続けた。「特別な一人がいました。塔の上で歌う神官。声が違った。他の神官とは、全く違った。その声を聞くと——わたしの中の、父の血ではない部分が、震えた。母から受け取った、人間の部分が」
麻衣はゆっくり聞いた。「その神官の名前を、知っていますか」
伯爵は麻衣を見た。
「ネフェルウ、と呼ばれていました」
麻衣はペンを置いた。
心臓が、静かに大きく波打った。
「ネフェルウと、話したことがありますか」と麻衣は聞いた。できるだけ、普通の声で。
「一度だけ」と伯爵は言った。「神官たちに閉じ込められる、少し前のことです。わたしは塔の下で毎朝歌を聞いていた。ある朝、歌が終わった後、ネフェルウが塔から降りてきた。人々が去った後、わたし一人が残っていた」
「何を話しましたか」
伯爵は少し間を置いた。
「ネフェルウがわたしに言いました。あなたはいつもここにいる、と。わたしは答えました。あなたの歌が、聞きたいから、と」
「ネフェルウは何と」
「わたしの歌ではない、と言いました」と伯爵は静かに言った。「受け取って、降ろしているだけだ、と。一人で歌っているのではない、と」
麻衣は目を閉じた。
受け取って、降ろしているだけ。22の意識体と、愛と——共同創造していた歌。一人ではなかった。
「それから」と麻衣は聞いた。
「それから」と伯爵は言った。「わたしはネフェルウに聞きました。その歌の源を教えてほしい、と。長老たちと同じことを、聞いてしまった」
部屋が静かになった。
「ネフェルウは答えましたか」
「答えませんでした」と伯爵は言った。「でも——長老たちに答えなかったのとは、違う沈黙でした。わたしへの沈黙は——言葉が足りないのではなく、言葉にしなくてもわかるはずだ、という沈黙でした」
「わかりましたか」
「その時は、わかりませんでした」と伯爵は言った。「でも今は——わかります。愛は水のようにどこへでも流れる。言葉にしなくても、受け取れる人には届く。ネフェルウはそれを知っていた」
「ネフェルウが閉じ込められたとき」と麻衣は聞いた。声が、少し変わった。自分でわかった。「知っていましたか」
伯爵はしばらく黙っていた。
「知っていました」とやがて言った。「でも止められなかった。神官たちの決定に、わたしが介入することはできなかった。歌が聞こえなくなった朝から、ずっと」
「何日間ですか」
「十四日です」
麻衣は息を飲んだ。ネフェルウが死ぬまでの日数と、同じだった。
「毎朝、塔の下にいたんですね」と麻衣は言った。「ネフェルウが歌わなくなった後も」
「いました」と伯爵は言った。「歌が聞こえなくても。ただ、そこにいた。それしかできなかった」
部屋には長い沈黙があった。
麻衣はメモ帳を見た。今日もあまり書けていなかった。でも体の中に、たくさんのものが積もっていた。黒い土のように。
「伯爵」と麻衣は言った。
「はい」
「ネフェルウは——あなたが毎朝来ていたこと、知っていたと思います」
伯爵は麻衣を見た。
「塔の上からは、下が見えた。ネフェルウは毎朝あなたを見ていた。だから——あなたへの沈黙は、言葉にしなくてもわかるはずだという沈黙だったんだと思います。あなたには届いていた」
伯爵は長い間、何も言わなかった。
窓の外で、冬の光が傾いていた。夕方になっていた。いつの間にか、長い時間が経っていた。
「ありがとう」と伯爵はやがて言った。「何千年も——知らなかったことを、今日知りました」
帰り際、伯爵は扉の前で振り返った。
「田辺さん。あなたはネフェルウのことを、どこかで知っていますか」
麻衣は少し間を置いた。
「夢で見ます」と麻衣は言った。「塔の上の景色を。百と七つの石段を。緑の大地とナイルを。歌った後の、喉の痛みを」
伯爵は静かに頷いた。驚いた様子はなかった。知っていたような顔だった。
「そうですか」とだけ言った。
「そうです」と麻衣は言った。
二人は少しの間、そのままでいた。
言葉にしなくても——届いていた。
扉が閉まった。
麻衣はメモ帳の最後のページを開いた。今日書いた最後の言葉を読んだ。
ネフェルウはひとりではなかった。
窓の外に、冬の星が出始めていた。
22の意識体が、今夜も歌っている。