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第五章

帳簿の女

東京、冬 / パリ、1892年

六度目の訪問の日、伯爵は煎茶を一口飲んで、こう言った。

「今日はパリの話をします」

麻衣はメモ帳を開いた。ペンを持った。でも何かを予感して、少しだけ構えた。

「19世紀末のパリに、長くいました」と伯爵は言った。「あの時代のパリは——人間が最も輝いていた時代の一つだと、わたしは思っています。芸術家たちが、宇宙の歌を、それぞれの形で地上に降ろそうとしていた」

「ロートレックも、マティスも」と麻衣は言った。

伯爵は少し止まった。「知っていますか」

「夢で」と麻衣は言った。「見ます」

伯爵は静かに頷いた。そしてこう言った。

「では——マドレーヌのことも、知っていますか」


麻衣はペンを置いた。

「知っています」と静かに言った。「赤いカーテンの部屋。帳簿。ノックの音、三回、間を置いて二回」

伯爵は麻衣を見た。長い間、見た。

「そうですか」とやがて言った。「やはり、あなたでしたか」

「やはり、とは」

「ずっと——同じ魂だと思っていました」と伯爵は言った。「ネフェルウも。マドレーヌも。そして今のあなたも。でも確信が持てなかった。今日、確信しました」

部屋が静かになった。冬の午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。

「あの夜」と麻衣は言った。「あなたが来た夜のことを、覚えています。ノックなしで扉が開いた。そういうことができる客は、あなただけだった」

「覚えていてくれましたか」と伯爵は言った。少し、柔らかい声で。

「帳簿を覗き込んで——お前はいつまでこの帳簿を見ている、と言いました」

「言いました」

「あの言葉の意味を」と麻衣は言った。「ずっと考えていました。責めていたのですか。それとも——」

「責めていない」と伯爵は即座に言った。「ただ——惜しかった。マドレーヌは、もっと大きな目を持っていた。数字の向こうにある人間を、見ることができる目を。でも帳簿だけを見ていた。だから、惜しかった」


「ロートレックのスケッチを、受け取りましたか」と伯爵は聞いた。

「受け取りました」と麻衣は言った。「帳簿の間に、挟みました」

伯爵は少し笑った。数千年ぶりの笑い方ではなく——もっと近い、温かい笑い方だった。

「見ていましたよ」と伯爵は言った。「あの夜、わたしもその部屋にいた。ロートレックがスケッチを渡す場面を。マドレーヌが紙を折りたたんで、帳簿の間に挟む場面を」

「隠した、と思いましたか?」

「最初は。でも今は——そうではなかった、と思っています。大切なものをしまう場所が、マドレーヌには帳簿の中しかなかった。ただ、それだけのことだったと」

麻衣は窓の外を見た。冬の光が、少し傾いていた。

大切なものをしまう場所が、帳簿の中しかなかった。

そうだったのかもしれない、と思った。マドレーヌにとって、帳簿は世界だった。数字の向こうを見ることを、やめていたのではなく——見る場所を、知らなかっただけだったのかも。


「一つ、聞いていいですか」と麻衣は言った。「アナスタシアという名前を、知っていますか」

伯爵は少し止まった。

「知っています」と静かに言った。「ロシアの森の女。でもあなたは——彼女の祖先のことを、聞きたいのですか」

麻衣はペンを持ったまま、伯爵を見た。「エジプトの神官と、関係があると書いてありました」

伯爵は窓の外を見た。冬の光が、斜めになっていた。

「関係がある、というより——始まりです」と伯爵は言った。「アナスタシアの遠い祖先が、エジプトの神官でした。ネフェルウと同じ時代ではない。もっと後の話です。でも同じ流れの中にある神官でした」


「その神官に」と伯爵は続けた。「妻がいました。リリスという女です」

麻衣は書いた。リリス。

「リリスは、人の女が森に捨てた子でした」と伯爵は言った。「森に捨てられた赤子を、自然が育てた。野生の動物たちが育てた。人間の手ではなく、大地そのものに育てられた女。その名はリリス——神が与えた名前でした」

麻衣はペンを止めた。森に捨てられて、大地に育てられた女。名前を神に与えられた女。

「その女と、エジプトの神官が出会った」と麻衣は言った。

「そうです」と伯爵は言った。「二人は結ばれた。子が宿った。でも——子が生まれる前に、神官は去りました」

「なぜ」

伯爵は少し間を置いた。「世界平和のためです」と静かに言った。「平和な世界をイメージする者たちを、集めるために。神官は群衆へ語り始めた。エジプトは、その語りに集まった者たちの、共同のイメージから生まれた」

「世界は、イメージによって形成される」と麻衣は言った。

「そうです」と伯爵は言った。「形象学、と呼んでいました。物質より先に、頭の中にイメージがある。イメージが、現実を引き寄せる。神官はその真理を知っていた。知っていたから——森を出て、語り始めた」


麻衣はペンを持ったまま、少し考えた。

物事は二度、創られる。

子供の頃から、そう感じていた。言葉にできなかったけれど、ずっと知っていた気がした。一度目は頭の中のイメージ。二度目は、それを具現化するための行動。でも——本来の人間には、もっと直接的な道があるのかもしれない。イメージに愛が加われば、行動なしでも具現化できるのかもしれない。神が地球を創ったように。宇宙の歌が星を生んだように。

「その神官の語りを」と麻衣は聞いた。「聞いたことがありますか」

「あります」と伯爵は言った。「あの時代、わたしはまだエジプトにいた。群衆の中に混じって、聞いていた。彼の語りは——ネフェルウの歌と、同じ種類のものでした。言葉を使っていたが、言葉の向こうに、宇宙の振動があった」


「でも」と伯爵は言った。声が少し、低くなった。「周りの神官たちが、それを許さなかった」

「最大の秘密を教えろ、と迫った」

伯爵は麻衣を見た。「知っていましたか」

「続きを聞かせてください」と麻衣は言った。

「周りの神官たちは言いました——最大の秘密はお前しか知らない。教えよ、と。神官は答えなかった。ネフェルウが答えなかったのと、同じ理由で——言葉にした瞬間、それは小さくなるから。言葉が、足りないから。だから語らなかった。その結果、塔に幽閉されました。食を断たれ、水を断たれ——」

「ネフェルウと、同じことが起きた」と麻衣は言った。

「同じことが、繰り返されました」と伯爵は静かに言った。「何千年も——同じことが。宇宙の真理を受け取った者が、権力を持つ者たちに秘密の開示を迫られる。語れば小さくなる。語らなければ、消される。その繰り返しが、歴史でした」


「でも」と伯爵は言った。「その神官の最後の話を、わたしは忘れません」

麻衣はペンを構えた。

「幽閉された塔の中で——神官は歌い始めました。死の前に。食も水も尽きた体で、それでも歌った。その歌は美しかった。塔の外の群衆を、魅了した」

「その日、塔の外にいた青年が静かに叫びました。——あなたは私の父ではないですか、と」

麻衣の手が、止まった。

「子でした」と伯爵は言った。「リリスとの間の子。父が森を出たとき、まだ生まれていなかった子が——十九年経って、塔の下に立っていた。父の歌を聞いて、この声を知っている、と感じた」

「父と子が、歌で語り合った」と麻衣は言った。声が、少し変わった。

「そうです」と伯爵は言った。「言葉ではなく、歌で。二人は歌の中で、十九年分を語り合った。父はまもなく、この世を去りました。でも子は生き続けました。——血筋は続いていった。その血筋の遠い末裔が、アナスタシアです」


麻衣はしばらく、何も書かなかった。

神官は死んだ。でも歌は残った。子が来て、輪が作られた。血筋が続いた。そしてアナスタシアへ——大地の智慧が、川のように流れていった。

「秘密の開示を迫った神官たちは」と麻衣は静かに聞いた。「その後どうなりましたか」

「ずっと地球を支配し続けています」と伯爵は言った。躊躇わずに。「あの時代の神官たちの精神が——形を変えて、今も続いている。権力の構造は変わらない。宇宙の真理を持つ者を、封じ込めようとする力は——今も、働いている」

麻衣はメモ帳に書いた。ゆっくりと。

語れば小さくなる。語らなければ、消される。でも歌は残った。血筋は残った。川は、流れ続けた。

「だから」と麻衣は言った。「今、この時代に——それを記録することに、意味がある」

伯爵は静かに頷いた。「そうです。語るのではなく——残す。流れが、次の誰かに届くように」


「パブロが来た夜も、いましたか」と麻衣は聞いた。

「いました」と伯爵は言った。「雨の夜。スペインから来たばかりの少年。あの目を——わたしは知っていた。見るために生まれてきた目を、何度も見てきたから」

「マドレーヌが女たちの名前を、声に出して読んだ夜のことを」と麻衣はゆっくり言った。「知っていますか」

伯爵は静かに頷いた。

「知っています。わたしはその夜も、そこにいました。パブロが帰った後、マドレーヌが一人きりの部屋で帳簿を閉じて——それから、声に出した。エロイーズ。クレマンティーヌ。マリー。ソフィー。アデル」

伯爵が、女たちの名前を言った。

麻衣は息を飲んだ。その名前たちが、この部屋に、今、流れた。百年以上前のパリの夜の名前たちが。

「聞こえていたんですね」と麻衣は言った。

「聞こえていました」と伯爵は言った。「誰にも聞かせるためではなく、ただそうしなければならない気がして——そう言っていたマドレーヌの声を。あの夜のことを、わたしは大切にしています。マドレーヌの魂が、初めて動いた夜だったから」


「一つだけ、聞いていいですか」と麻衣は言った。

「どうぞ」

「あなたはずっと——ネフェルウを見ていた。マドレーヌを見ていた。わたしを見ていた。それは、なぜですか」

伯爵はしばらく考えた。煎茶を一口飲んだ。

「わたしの父の血統は——完全な創造ができなかった者たちの子孫です。星は作れた。生命も作れた。でも循環が作れなかった。愛を持たなかったから——永続するサイクルを持った世界が作れなかった。でもわたしの母は人間だった。人間の中には、神のかけらがある。愛のかけらがある。循環する命の、かけらがある」

「それを、見ていた」

「そうです」と伯爵は言った。「神が22の意識+愛を内包して地球を創ったように——わたしも、人間の中に流れる愛を見ることで、やっと存在できた。ウォッチャーの子孫として、それだけが——わたしにできることでした」

麻衣はメモ帳に書いた。ゆっくりと。

見ることが、彼の創造だった。

「でも今」と麻衣は言った。「記録しようとしている」

「そうです」と伯爵は言った。「見るだけでは、足りないとわかった。残していかなければ——見てきたものを。それが、わたしの最後の創造です」

「一人ではできない」

「一人ではできない」と伯爵は繰り返した。「だから——あなたに頼んだ」

部屋に、静かな時間が流れた。

愛は23番目だった。一人では物質化できなかった神が、愛の申し出を受け取って、初めて創造できた。

伯爵も——麻衣という23番目を、ようやく見つけた。

「ありがとう」と麻衣は言った。「依頼を、受けてよかったです」

伯爵は静かに頷いた。今日は、笑った。


帰り際、扉の前で伯爵が振り返った。

「マドレーヌが最後の夜に思ったことを、知っていますか」

麻衣は首を振った。

「次の世では、もっと早く、見る——と思いました」

麻衣は、その言葉を聞いて、目を閉じた。

暖炉の前でスケッチを見ているマドレーヌが、見えた気がした。雪が降り始めたパリの夜。十五年分の帳簿。エロイーズ。クレマンティーヌ。マリー。ソフィー。アデル。

次の世では、もっと早く、見る。

その約束を、麻衣は今世で果たしている。

「知っています」と麻衣は言った。「わたしが、そう思いましたから」

扉が閉まった。

窓の外に、冬の星が出ていた。

22の意識体が、今夜も歌っている。愛が、水のように流れている。

マドレーヌの約束は、ここに届いていた。


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