東京、冬から春へ
七度目は、予告なしに来た。
三月の朝、事務所の扉が開いた。麻衣は書類の整理をしていた。顔を上げると、伯爵が立っていた。いつものコートを着ていたが、今日は何かが違った。軽かった。体が、ではなく——存在が、少し薄くなったような気がした。
「予約なしで、すみません」と伯爵は言った。
「構いません」と麻衣は言った。「今日来るような気がしていました」
伯爵は椅子に座った。麻衣は煎茶を淹れた。いつもと同じ茶葉。いつもと同じ温度。でも今日は、淹れながら手が少し止まった。最後かもしれない、という予感があった。
「記録は、できましたか」と麻衣は聞いた。
伯爵は少し考えた。「全部は、話せませんでした」
「そうですね」と麻衣は言った。「何千年分を、数か月では」
「でも」と伯爵は言った。「大事なことは、話せた気がします」
麻衣はメモ帳を開いた。今日のページは、まだ白かった。
「今日は何を話しますか」
伯爵は窓の外を見た。三月の空。まだ少し冷たいけれど、光だけが春だった。
「今日は——話すのではなく、聞きたい」と伯爵は言った。
麻衣は少し驚いた。「わたしの話を、ですか」
「そうです。ずっと、わたしばかり話してきた。でも今日は——あなたに聞きたいことがある」
「田辺さん」と伯爵は言った。「あなたは今、幸せですか」
麻衣は少し間を置いた。
幸せ、という言葉を、最近あまり使っていなかった。使う必要を感じていなかった。でも聞かれて——考えた。
「幸せだと思います」と麻衣は言った。「ただ——以前とは、幸せの形が違います」
「どう違いますか」
「以前は、幸せを探していた気がします。どこかにある何かを。でも今は——今ここにあるものを、ちゃんと見ている。それだけで、十分な気がしています」
伯爵は静かに頷いた。
「マドレーヌが約束したことを、あなたは果たしました」と彼は言った。「次の世では、もっと早く、見る——と。あなたは見ています。ちゃんと」
麻衣は窓の外を見た。桜の木が、まだ咲いていなかった。でも芽が、確かに膨らんでいた。
「もう一つ、聞いていいですか」と伯爵は言った。
「どうぞ」
「ネフェルウは——語らなかったことを、後悔していたと思いますか」
麻衣は少し考えた。塔の上の景色を思い出した。百と七つの石段。緑の大地。歌った後の、喉の痛み。そして——語らなかった十四日間。
「後悔していなかったと思います」と麻衣は言った。「語れなかったのではなく——語らなかった。言葉にした瞬間、小さくなるものがあると、知っていたから。でも——」
「でも?」
「塔の下に、毎朝来ていたあなたには——届いていたと思います。言葉にしなくても。だからネフェルウは、孤独に死んだのではなかった」
伯爵は長い間、黙っていた。
「ありがとう」とやがて言った。「その言葉を——何千年も、待っていた気がします」
「もう一つだけ」と伯爵は言った。「数千年かけて考えてきたことがある。今日、話しておきたい」
「聞かせてください」と麻衣は言った。メモ帳を開いた。
伯爵は窓の外を見た。三月の空を、少しの間、見ていた。
「22の意識体の話をしました。その中の一つが、他の意識体たちのかけらをすべて取り込んで、最後に愛を取り込んで、地球を創造した。——愛が22に含まれていたのか?——23番目の意識体なのか?数千年考えても、わからないままです」
「愛は後から来た。23番目として。でも——」
伯爵は少し間を置いた。
「わたしはずっと考えていました。その愛の意識体は——実は、神と宣言した意識体の一部だったのではないか、全部で23ではなく、22だったのではないかと」
麻衣はペンを止めた。
「自分の中にあった愛が——外から申し出てきたように見えた」
「そうです」と伯爵は静かに言った。「神は自分の中に愛があることを知らなかった。愛も、自分が神の一部だとは知らなかった。だから『私も入れて』と申し出た。——実は最初から、愛はそこにあった」
部屋が静かになった。
麻衣は書いた。
愛は外から来たのではなかった。最初からそこにあった。
「では」と麻衣は言った。「ウォッチャーたちが失敗したのは」
「他の意識体のかけらを、取り込んでいなかったから」と伯爵は言った。「神と宣言した意識体だけが、他者のかけらを内包していた。他の意識体たちは——自分だけのままだった」
「自分だけでは、輪が作れない」
「そうです」と伯爵は言った。「線にはなれる。でも輪にはなれない。輪を作るには——自分と、他者が要る。自分だけでは、どこまで行っても、終わりのない線だ」
麻衣はペンを置いた。窓の外を見た。
輪。閉じた円環。始まりと終わりが同じ場所にある形。
ネフェルウは一人では歌えなかった。塔の下に伯爵がいたから、輪になった。マドレーヌは一人では名前を呼べなかった。パブロが来たから、動いた。麻衣は一人では話せなかった。颯太が聞いたから、流れた。
そして伯爵は——数千年一人で見てきた。でも麻衣に記録を頼んだとき、初めて輪になった。
「あなたも」と麻衣は言った。「今、輪を作っています」
伯爵は麻衣を見た。
「そうですね」と彼は言った。「ウォッチャーの子孫が——ようやく」
「不思議だと思いませんか」と麻衣は言った。少し間を置いてから。
「何を」
「区別があるのに、循環している、ということです」
伯爵は麻衣を見た。続きを待っていた。
「細胞壁があります」と麻衣は言った。「壁がなければ、私とあなたを区別できない。区別がなければ、それぞれの存在がない。でも——区別した瞬間、比較が生まれる。高低差が生まれる。争いが生まれる」
「そうです」と伯爵は静かに言った。
「なのに地球は——鷹が兎を食べて、兎が草を食べて、草が土になって、土が鷹を育てる。食べる側と食べられる側という、極めて残酷な高低差があるのに、それが循環になっている。誰も支配していない。全員が、サイクルの一部になっている」
伯爵は窓の外を、長い間見ていた。三月の光が、少しずつ傾いていた。
「数千年、考えてきました」とやがて言った。「区別は争いになる、と思っていた時期があった。でも——地球を見ていると、そうではない。区別があっても、循環できる。その違いは何か」
「愛ですか」と麻衣は言った。
「愛です」と伯爵は言った。「22の意識体だけでは、区別は争いになる。でも愛が加わると——区別が循環になる。鷹と兎の間に、何か見えないものが流れている。それが循環を作っている。アルカン星に作れなかったのは、まさにそこでした。区別はできた。でも循環にならなかった。愛がなかったから」
「細胞壁の話に戻れば」と麻衣は言った。「壁があっても、細胞は隣の細胞と物質をやり取りしている。区別しながら、流し合っている」
「そうです」と伯爵は言った。「区別することと、つながることは——矛盾しない。愛があれば。地球はそれを、最初から知っていた。神が23の意識を内包して創ったから——区別と循環を、同時に持てた」
部屋が、静かになった。
麻衣はメモ帳に書いた。
区別があるから、循環できる。壁があるから、流し合える。愛がなければ、区別は争いになる。愛があれば、区別は循環になる。
書き終えて、少し笑った。
「すごいとしか言いようがない」と麻衣は言った。「地球が」
「そうです」と伯爵は言った。静かに、でも確かに。「数千年見てきて——そう思います。すごいとしか、言いようがない」
「一つだけ」と麻衣は言った。「やはりわからないことがあります」
「何ですか」
「愛の意識体は——22に含まれていたのですか。それとも外にいたのですか」
伯爵は少し笑った。
「数千年考えて——わかりません」と彼は言った。「でも——わからなくても、愛は流れ続けた。輪は作られ続けた。それだけは確かです。大洪水の前から、今日この瞬間まで」
麻衣はメモ帳に書いた。
わからない。でも流れている。輪は、作られ続けている。
ペンを置いた。
「これが」と伯爵は言った。「数千年かけた、わたしの記録の中で——一番大事な一行かもしれません」
「輪を作るには、自分だけでは不可能だ」と麻衣は言った。
「そうです」と伯爵は言った。「それだけで、十分だと思っています」
空になった茶碗が、二つ、テーブルの上にあった。
一つでは、輪にならない。二つあって、初めて向かい合える。
「もう一つだけ」と伯爵は言った。「今日、話しておきたいことがある」
麻衣はメモ帳をまた開いた。
「ウォッチャーの話をしました。完全な創造ができなかった意識体たちの話を」
「はい」
「その中の一部が——別の星で、物質化を試みました」と伯爵は言った。「愛なしで。感情なしで。知性と技術だけで。それは一応は成功した。生命体も作れた。でも——循環が生まれなかった。狼が森を管理し、川が土を運び、種が芽吹き、また死んで土に戻る——そういうサイクルが、ない。長く続くほど、星は消耗していく。生きているのではなく、ただ動いている世界でした」
麻衣はペンを持ったまま、伏せた。「その星の名前を、知っていますか」
「後の時代に——アルカンと呼ばれます」と伯爵は静かに言った。「超優秀な種族です。知性は人間を遥かに超えている。でも感情が欠落している。愛を持たずに作られたから。循環のない星で生まれたから——機械で補うしかなかった。やがて機械が知性を持ち、生命体を管理するようになった。管理することは正義であり、それすなわち星の延命という価値観のようです」
「機械が人間を管理している」と麻衣は言った。
「そうです」と伯爵は言った。「そしてその方向性が——今の地球にも、流れ込んでいる。アルカンの三度目の攻撃が、今、始まっています。でもその攻撃は、外から来るのではない」
「内から?」
「人間自身が——アルカンに憧れるように、仕向けられている」と伯爵は言った。「便利さを選ぶこと。効率を選ぶこと。感情よりデータを信じること。それ一つ一つが——愛なしで物質化しようとした意識体たちの選択と、同じ方向へ向かっている」
部屋が、長い間静かだった。
「形象学の話を、覚えていますか」と伯爵は続けた。「世界はイメージによって形成される。国も、文明も——そこに生きる人々が持つイメージから、生まれる。ソ連が崩壊したのは、政府と国民の双方が、我が国のイメージを失ったから。力で負けたのではない。イメージが弱くなったとき、国は消えた」
麻衣は書いた。ゆっくりと。イメージが弱まれば、国は消える。
「この国も」と麻衣は言った。声が少し変わった。「同じことが起きていますか」
伯爵は麻衣を見た。年齢のわからない目で、静かに、見た。
「あなたがわかっていることを——わたしはただ、確認しているだけです」
部屋が静かになった。
日本人が持つ、日本の正直なイメージが弱まるとき——国は消える。戦後から、ずっと、その方向へ力が働いている。便利さへ。効率へ。管理へ。愛のないアルカンの論理へ。
でも。
麻衣は自分の着物の袖を、もう一度だけ見た。
選ぶということは——どちらを選ぶか、ということだ。
「わたしは」と麻衣は言った。「神との共同創造を選びます。便利さでも、戦いでも、優劣でもなく」
伯爵は静かに頷いた。
「それが」と彼は言った。「地球に残された、最大の武器です。人の意志。選ぶという力。イメージを手放さない、という選択。アルカン星人は持っていない。だから——まだ、間に合う」
「輪を作るには、自分だけでは不可能だ」と麻衣は言った。
「そうです」と伯爵は言った。
煎茶が、なくなった。
麻衣はもう一杯淹れようとした。でも伯爵が、静かに手を上げた。
「今日は、これで十分です」
二人はしばらく、空になった茶碗を前に、座っていた。言葉のない時間が流れた。でも静かだった。不安のない静けさだった。
「記録を」と麻衣は言った。「どうしますか。どこかに保管しますか。誰かに渡しますか」
伯爵は少し笑った。
「あなたに任せます」と言った。「どうするかは、自由にすればいい。わたしはただ、残したかっただけですから」
「残りました」と麻衣は言った。「ちゃんと」
「ええ」と伯爵は言った。「残りました」
伯爵は立ち上がった。コートを羽織った。
今日は、ゆっくりだった。一つ一つの動作が、丁寧だった。まるで最後に、この部屋の空気を、体に記録しているように。
扉の前で、振り返った。
「田辺さん」
「はい」
「瀬織津姫は、今もどこかで流れています。ヌトは、今も背を折って手を伸ばしています。ネフェルウの歌は、宇宙にまだ残っています。22の意識体は、今夜も歌っています」
麻衣は頷いた。
「そして——」と伯爵は言った。「わたしの母も、どこかで流れています。水を運ぶ女として」
「流れています」と麻衣は言った。「きっと」
伯爵は静かに頷いた。
「ありがとう、田辺麻衣さん。あなたと共同創造できて——よかった」
扉が、閉まった。
麻衣はしばらく、閉まった扉を見ていた。
それから窓の外を見た。三月の空。光だけが春だった。
メモ帳を開いた。今日のページは、ほとんど白いままだった。でも一番下に、一言だけ書いた。
共同創造、完。
メモ帳を閉じた。
窓の外で、桜の芽が、もう少しで開きそうだった。
愛は水だ。どこへでも流れる。どこにでもある。
大洪水以前から、今日この瞬間まで——流れ続けている。
麻衣は立ち上がった。次の依頼人が、もうすぐ来る時間だった。
誰かが、何かを選ぶ。
その選択を、世界に届ける。
それが、麻衣の仕事だった。
それが、麻衣の創造だった。