東京、春
伯爵が来なくなって、一か月が経った。
麻衣は毎週火曜日、煎茶を淹れた。同じ茶葉。同じ温度。誰も来なくても、淹れた。なぜそうするのか、自分でもわからなかった。ただ、そうしなければならない気がした。
三週目の火曜日、颯太からメッセージが来た。
明日暇?
暇と麻衣は返した。
煎茶ある?
麻衣は少し笑った。
ある
颯太に、伯爵の記録を見せた。
メモ帳を六冊。大洪水以前から始まって、エジプトの神殿、パリの娼館、革命前夜のサロン、そして宇宙の話。22の意識体。愛は23番目。輪を作るには自分だけでは不可能だ。わからない。でも流れている。
颯太はメモ帳を一冊ずつ、丁寧に読んだ。一時間以上かかった。麻衣は煎茶を飲みながら、桜の木を見ていた。もう散り始めていた。
颯太がメモ帳を閉じた。
「これ」と彼は言った。「残すべきだよ」
「残っているわ。ここに」と麻衣は言った。
「もっと広く」と颯太は言った。「読める形で。必要な人のところへ、流れていくように」
麻衣は窓の外を見た。散った桜の花びらが、風に乗って飛んでいた。どこへ行くか、決めていない。でも飛んでいく。
愛は水だ。どこへでも流れる。
「わかった」と麻衣は言った。
その夜、麻衣は事務所の机に向かった。
メモ帳を開いた。最初のページから。
大洪水以前。出生地:光の場所。現在:海底。母:水を運ぶ女。人間。
書き始める前に、少しだけ、座ったままでいた。
窓の外は東京の夜だった。光の多い夜。星は見えない。でも今夜は、その光の向こうに、22の意識体が歌っているのを、どこかで感じた。
麻衣は自分の着物の袖に触れた。木綿の藍染め。下駄が床の上に揃えてある。
洋服でもよかった。でも麻衣はずっと、和服を選んでいた。理由を人に説明するのは難しかった。でも伯爵の話を聞いてから——わかる気がしていた。大地と自分をつなぐものが、必要だったのだと思う。形象学の話で言えば——着物を着るたびに、麻衣の中で何かがイメージされる。日本の、緑の、正直な大地の。そのイメージが、今の自分を作っている。
物事は二度、創られる。
子供の頃から、そう思っていた。言葉にできなかったけれど、確かに知っていた。一度目は頭の中のイメージ。二度目は、それを具現化するための行動。設計図が先に、建物が後に。でも——今は思う。本来の人間には、もっと直接的な道があったのかもしれない。イメージに愛が加われば、行動なしでも具現化できる。神が愛の23番目を受け取って、地球を創ったように。
選ぶ、ということは——そのどちらかを選ぶということだ。
便利さを選ぶか。戦いを選ぶか。優劣を選ぶか。それとも——神との共同創造を選ぶか。
私は、共同創造を選ぶ。着物を着ること、下駄を愛用すること——それは麻衣なりの、神との共同創造だった。先祖たちのイメージと大地のイメージを手放さない、という選択だった。
メモ帳を開いた。最初のページから。
大洪水以前。出生地:光の場所。現在:海底。母:水を運ぶ女。人間。
書き始めた。
行政書士として書類を整えるように、丁寧に。誰かの選択が世界に届くように整えるように、一言一言、選んで。伯爵が話した言葉を、次の人間が受け取れる形に。
これが麻衣の創造だった。
伯爵が見てきたものを、麻衣が書いた。麻衣が書いたものを、誰かが読む。読んだ誰かが、また次へ渡す。
輪が、作られていく。
書き終わったのは、夜中の二時だった。
麻衣は窓を開けた。春の夜の空気が入ってきた。
星が出ていた。東京でも、今夜は見えた。22個、数えようとして——やめた。数えなくてもいい。そこにある。今夜も歌っている。
引き出しを開けた。名刺があった。
Choisir.
裏を見た。麻衣が書いた一言が、まだそこにあった。
選んだ。
その隣に、もう一言、書き足した。
流した。
名刺を引き出しに戻した。
窓を閉めた。電気を消した。鍵をかけた。階段を降りた。
夜の中へ、歩いていった。
大洪水以前から、今日まで。 光の場所は海の底に沈んだ。 でも水は、運び続けた。
ネフェルウは語らなかった。でも歌は残った。 セリーヌは選べなかった。でも言葉は残った。 マドレーヌは見なかった。でも名前は残った。 麻衣は選んだ。そして流した。
神との共同創造を、選んだ。 便利さでも、戦いでも、優劣でもなく。 愛が23番目として申し出たように——自分の内にあった愛に気づいて、そちらへ向かうことを、選んだ。
人の最大の武器は、意志だ。 物質ではない。 イメージだ。創造だ。 頭の中に先に生まれ、愛が加わって、世界に現れるもの。
サン・ジェルマン伯爵は、どこかへ流れていった。 水を運ぶ女と同じように。 愛と同じように。
川は、まだ流れている。 輪は、作られ続けている。 わからない。でも流れている。 それだけで、十分だ。
了