三度目の奥多摩。
十二月になっていた。
山は冷えていた。
息が白かった。
透が焚き火を起こしていた。
拓海は座った。
コーヒーを受け取った。
「透さん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「俺みたいな普通の人間が、観測者になったとして、何が変わるんですか。世界規模で言えば、何も変わらないんじゃないですか」
透はコーヒーを飲んだ。
「山下さん、石を川に投げたことはありますか」
「あります」
「波紋が広がりますよね」
「はい」
「一つの石が、川の端まで届きますか」
「届かないと思います」
「でも、波紋は広がる」
「広がります」
「それです」
拓海は焚き火を見た。
「でも、波紋は消えます」
「そうですね」
「消えたら、意味がないんじゃないですか」
透は首を振った。
「消えた波紋が、水の分子を動かしています。目に見えないだけで、確かに動いている。その動きが、次の何かに影響する」
風が吹いた。
杉が揺れた。
「俺が田中に話したことが、波紋になりますか」
「なっていると思います」
「田中は電車で外を見るようになったと言っていました」
「それが波紋です」
「でも田中が外を見ても、世界は変わらない」
「田中が外を見て、何かを感じた。その何かが、田中の次の選択を変えるかもしれない。田中の選択が、誰かの何かを変えるかもしれない」
拓海は空を見た。
冬の星が、多かった。
「透さんは、どうして俺にこれを話したんですか。本当のところを」
透は空を見た。
しばらく黙っていた。
「弥山という人がいました」
「老人ですよね。夢に出てくる」
「その人に言われたんです。お前の次に来る者が、本当に伝える者だ、と」
拓海は透を見た。
「俺が、ですか」
「わかりません。でも、あなたが来た」
「俺は特別じゃないですよ」
「知っています」
「サンカの血とか、そういうのもない」
「知っています」
「じゃあなぜ」
透は拓海を見た。
「特別じゃないから、です」
沈黙があった。
焚き火だけが、音を立てていた。
「特別じゃない人間が、気づく。それが最も強い波紋です」
透は続けた。
「透さんは特別な血筋があった。エマさんはクリスチャンだった。エレズさんはモサドだった。みんな、何か特別な文脈があった」
「俺には何もない」
「そうです。何もない人間が気づいた時、同じ何もない人間に届く。それが、一番広い波紋になる」
拓海は手を見た。
普通の手だった。
何も特別ではない手だった。
でも今夜、それでいいと思った。