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第一章

またから生まれるもの

6月の午後、佐伯幸は、ミニトマトを半分に割った。

 包丁の刃がオレンジ色の果肉に入った瞬間、中から透明なゼリー状のものが溢れた。種だった。ぐちゅぐちゅと、まるで生きているように、まな板の上に広がった。

 捨てるのはもったいない。

 理由はそれだけだった。家庭菜園を10年やっていると、こういう感覚が体に染み付く。スーパーで買ったトマトの種でも、土に埋めれば育つことを、幸は知っていた。

 プランターに埋めた。窓際の、日当たりのいい場所に置いた。

 それだけだった。


 3ヶ月後、その種は身長1メートルになっていた。

 幸は毎朝、水をやりながら植物を観察した。家庭菜園を始めて10年になるが、今年初めて、ちゃんと見た気がした。いや、正確には、今年初めて、見え始めたのだった。

 新芽は、また(股)から伸びていた。

 茎と茎が分岐する場所。人間で言えば、脚の付け根、股に当たる部分。そこから新しい芽が伸びていた。柔らかく、まだ産毛のような毛に覆われた、緑色の芽。触れると、微かに温かい気がした。生きているものだけが持つ、あの温度。

 でも花芽は、脇から出ていた。

 茎の横腹から、ひょいと顔を出して、やがて黄色い5枚の花弁を広げ、小さなトマトになる。また(股)でも、先端でもなく、脇から。

 またから新しい命。脇から実を結ぶもの。

 幸は水やりの手を止めた。

 ジョウロを持ったまま、しばらく立っていた。

 これ、どこかで見た図だ。


 人間の子供は、女のまたから生まれる。

 当たり前のことだ。誰でも知っている。でも幸は、トマトの新芽を見た瞬間、その「当たり前」が、突然、当たり前ではなくなる感覚を味わった。

 植物もまたから新しい命を生む。

 でも植物が種を作るのは、またではなく脇だ。

 なぜ、場所が違うのか。

 なぜ、人間はまたから子を産み、植物は脇から種を作るのか。

 幸はジョウロを置いた。

 植物の構造を、もう一度、ゆっくりと見た。


 根っこ。茎。葉。花。実。種。

 私たちは植物を、根っこが「下」で、花が「上」だと思っている。地面から空に向かって伸びる生き物だと思っている。

 でも、それは本当だろうか。

 植物にとっての「頭」は、どこだろう。 人間の頭は、思考する場所だ。情報を集め、処理し、命令を出す場所だ。 体の中で最も重要な器官が集まっている場所。

 植物で、それに当たるのはどこか。

 根っこではないか。

 根っこは、地中に張り巡らされた無数の細根で、水分を、ミネラルを、微生物との信号を、絶え間なく受け取っている。 根っこがなければ植物は死ぬ。 どんなに大きく育っても、根っこが傷めば、1週間で枯れる。

 根っこが頭なら、植物は逆さまに立っている。

 頭(根っこ)を地面に埋めて、足(梢)を空に向けて伸ばしている。

 そして——頭(根っこ)に近い場所、またから、新しい芽が出る。


 ではなぜ、人間は頭が上にあるのか。

 植物の原理が正しいなら、人間も頭(重要な器官が集まった場所)が下にあるべきではないか。

 どこかで読んだことがあった。 人間は本来、逆さまの生き物だという説。 頭が下で、足が上が、本来の向きだという話。 ヨガの逆立ちのポーズが、実は人間の「正しい姿勢」に近いという人もいる。

 幸はそれを読んだ時、荒唐無稽だと思った。

 でも今は、少し違って見える。

 植物の構造から考えれば、頭(重要な部分)が下にあって、股から命を生むのは、論理的に筋が通っている。

 では人間が頭を上にして生きているのは——

 何かが、逆になってしまったからではないか。