雫は進路を変えてみた。速度を落とし、また上げた。船をぐるりと回してもみた。それでも、物体Aは、いつのまにか、また同じ場所にいた。逃げても、逃げても、ついてくる。まるで、こちらの気配を、ずっと見ているみたいに。
「物体Bが接近中」 続けて「物体Cが接近中」 宇宙船の音声プログラムが、検知した順に、機械的にアルファベットの名を割りふっていた。 名前がつくと、少し落ち着く。 得体の知れないものに呼び名を与えるのは、たぶん、怖さと折り合いをつけるための、人間の昔からのやり方なのだろう。
物体Cは、ずいぶんゆっくりと飛んでいた。
雫は、迷った末に、船の外へ出ることにした。
宇宙服を着て、扉の向こうへ。命綱一本で、真っ暗な大宇宙へ、そっと身を投げ出す。宇宙遊泳。足の下には、地面のかわりに、どこまでも続く闇があった。怖くはなかった。あの子どものころの、まぶたの裏の夜と、同じ暗さだったから。
雫は、物体Cを、両手でそっとつかまえた。
それは、思っていたよりも軽く、そして、かすかに、あたたかかった。
船のなかへ持ち帰り、雫はそれを、ラボ備えつけの小さな遠心分離機にかけた。 速く回転して、軽いものと重いものを、きっちり分けていく。──そういえば、と雫は思い出す。ずっと昔、地球の人々は、こうやって乳をかき回して、バターを作っていた。遠く離れた宇宙で、一番古い手つきを思い出すなんて、おかしな話だった。
物体Cを、光にかざす。計器が、その成分を読みあげていく。キセノン。それから、他にもいくつか。けれど雫の目を引いたのは、成分ではなかった。形だった。
物体Cには、二つの面があった。そして、片方がゆっくり閉じると、もう片方が、そっと開く。閉じる。開く。閉じる、開く。まるで、呼吸のように。生きていないはずのものが、たしかに、息をしていた。
物体Cを覗きこんで、雫は、息をのんだ。
その内側は、こまかな筋が無数に枝分かれし、繋がりあっていた。どこかで見た模様だった。脳内神経が、手を繋ぎあうあの形。シナプス。──意識と意識が、互いに手を伸ばし合う姿。雫には、そんな風に見えた。
その瞬間、雫の胸の奥で、子どものころの記憶が蘇った。
──宇宙は、体の中にもある。
地球から一番遠い場所で見つけたものが、自分の頭の中と、同じ形をしている。偶然だろうか。それとも…雫は、しばらく動けなかった。
やがて雫は、物体Cを、そっと宇宙へ還した。分解して構造を突き止めることもできたと思う。でも、なぜだか、そうする気になれなかった。息をしているものを、ばらばらにしたくなかった。ただ、それだけだった。物体Cは、闇の中へ、ゆっくりと遠ざかっていった。
入れかわるように、画面に、また新しい点が灯った。物体D。
そして──物体Aが、動いた。
ずっと同じ距離で、雫を見ていたはずのあれが、まっすぐに、船へ近づいてくる。こつん、と小さな音がして、雫の船と、物体Aとが、そっと触れ合った。まるで、ノックするかのように。
雫は、宇宙服の手袋を、握りしめた。
向こうから、ノックという合図が来た。だったら、会いにいくしかない。雫は、扉の方へと歩き出した。