扉の向こうに、それは、いた。
岩だった。黒くて、ごつごつした、岩のかたまり。けれど、ただの岩ではなかった。八本の脚が、そこから伸びていた。蜘蛛のようだ、と雫は思った。岩でできた、大きな蜘蛛。
雫は、動けなかった。怖いと思うより先に、目が、離せなかった。相手も、同じだったのかもしれない。二つの生き物は、透明な仕切りをはさんで、ただ、向かい合っていた。どちらの世界の空気も、たがいにとっては猛毒だった。だから、この一枚の仕切りだけが、二人を隔て、そして、繋いでいた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、その岩の蜘蛛が、ゆっくりと、脚を動かした。攻撃では、なかった。脚の先で、宙に、形を描いている。
横に倒した、八の字。ちょうど、無限をあらわす、あのしるし──∞。そして、その線に沿って、小さな玉を八つ、ぽつり、ぽつりと。
雫は、それをじっと見ていた。形も、八。玉の数も、八。同じ数が、二重に重なっている。理科の授業の、一番最初のころが、頭のすみで、ちかりと光った。──学校で習った、元素をならべた表。端から数えて、八番目に置かれていたのが、酸素だった。
酸素だ、と雫は気づいた。この宇宙のどこででも、変わらない、八番目のもの。
しかも、その八は、横に倒せば、無限のしるしになる。終わりがないという意味。コハクは、二つのことを、いちどに言っていたのかもしれない。──酸素。そして、終わりなき連鎖。「わたしたちは、同じきまりの上に、立っている。この、終わりのない宇宙の、どこにいても」と。
そういえば、と雫は、ふと思う。日本で一番古い和歌にも、たしか「八」があったはずだ。八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を (やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを) 人も、遠い異星の生きものも、同じ数に、同じ神秘を見てきたのかもしれない。
でも、と雫は思った。その酸素に、一番軽い水素が、ふたつ寄りそえば──水になる。
水。
雫の胸が、ざわりとした。追いかけてきた、あのウイルス。星を蝕み、みなに恐れられている、あれ。コハクが最初にくれたこのしるしは、ただの酸素ではなく、その先にある水を、そっと指さしていたのかもしれない。──なぜ、今、水のことが心をよぎったのか。そのわけは、雫自身にも、まだわからなかった。
それが、二つの生き物のあいだで交わされた、はじめての言葉だった。
雫は、震える手で、仕切りのこちら側に、同じしるしを描いてみせた。横に倒した八と、八つの玉。
岩の蜘蛛は、脚をうれしそうに小刻みに揺らした。
そこからは、早かった。片方が音を鳴らせば、片方がまねをする。光を点滅させれば、点滅を返す。少しずつ、少しずつ、二つの生き物は、たがいの"ことば"を、翻訳していった。うまく通じたとき、岩の蜘蛛の体の奥が、ぼうっと、あたたかい色に光った。琥珀のような、やさしい色。
だから雫は、その相手を、こう呼ぶことにした。
「コハク」
コハクにも、雫と同じ、事情があった。
たどたどしいやりとりの果てに、雫は、ようやく理解した。コハクの星の太陽も、暗くなりはじめている。あのウイルスは、コハクの世界にも迫ってきていた。コハクもまた、それを止める方法をさがして、はるばる、ここまでやってきたのだ。
仲間は、二十三人、いたという。
今は、コハク、ひとり。
雫は、言葉を失った。星も、太陽も、種族も、体の形も、何もかもが違う。それなのに、たったひとつ、同じ問題を二人は抱えていた。──たったひとりで、消えゆく運命の母星を、なんとか救おうとしている。その、途方もない孤独感だけが、ぴったりと、重なっていた。
雫は、仕切りの向こうのコハクに、そっと、手のひらを当てた。
コハクの脚が、こつん、と、同じ場所に触れた。冷たい岩ごしに、たしかに、ぬくもりのようなものが、伝わってきた。
このひろい宇宙で、ひとりではなくなった。たった、それだけのことが、雫の胸を温かくした。
けれど、二人は、まだ知らなかった。二人が命がけで追ってきた、そのウイルスの正体が、じつは、思いもよらないものだったことを。