← 幸運は、星から星へと伝播する 目次

第四章

水の子たち

コハクと二人なら、こわくなかった。

 二人は、あのウイルスを、調べてみることにした。星を蝕み、皆に恐れられてきた、あのウイルス。シャーレの中から、そっと少しだけ取って、船の中の小さなラボ(実験室)に持ちこむ。こうして、二人がかりのウイルス研究が、はじまった。

 まず、わかったことがある。それは、明るいところでは、どうしても姿を見せなかった。計器には映る。触れることもできる。けれども、目には、映らない。二人が船中の灯りを、ひとつ残らず消して、完全な暗闇にしたとき、はじめて、ウイルスの姿を視覚でとらえることができた。ぼうっと、かすかに光っている。まるで、その身の奥に、小さな灯りを、ひとつ、抱えているかのように。──明るさの中では、まわりの光にまぎれて見えず、闇の中でだけ、そのささやかな光を現す。まるで、小さな希望が、最も暗い時にこそ、最も明るく見えるのと同じだな。と思った。

 ウイルスの正体は、実に意外なものだった。ほとんど水だったのだ。かたい殻も、おそろしい毒もなかった。例えるなら、それは小さな、水のしずく。それが、数えきれないほど、群れていたのだ。

 雫は、心の中で、呼び名をそっと変えた。ウイルス、ではなく──水の子たち。恐れる相手ではなく、小さな、水の子たち。そう呼んだとたん、ふしぎと、胸のこわばりが、ほどけていった。

 では、この「水の子たち」は、何を食べて生きているのか。

 観察を続けるうちに、雫は気づいた。それは、太陽から、こぼれ落ちる熱を、吸っていた。目に見える光ではなく、その裏側にある、あたたかさ──赤外線。太陽が、惜しげもなくまき散らしている、あたたかさのおこぼれ。雫は、それを"太陽の吐息"のようだと思って、少しだけ笑ってしまった。星のため息みたいな熱を、ちびちび飲んで、この小さな水たちは、生きていた。

 そして、その熱をおなかにためこむと、決まった方角へ、飛んでいく。

 金星の、方角だった。

 なぜ、金星なのか。二人は、長いあいだ、頭をひねった。答えは、思いがけないところにあった。──繁殖だ。この水の子たちは、二酸化炭素のあるところで、はじめて、数を増やすことができた。そして金星は、二酸化炭素のふるさとのような星。だからこの子たちは、あたたかさをたずさえて、子孫を残すために、はるばる金星をめざしていたのだ。

 こども。

 その言葉が、雫の胸に、ふいに引っかかった。

 というのも、その日つかまえた四匹目は、ほかのものより、ずっと小さかったのだ。同じ形、同じ水のしずく。でも、ひとまわり、ちいさい。──これは、子どもだ。この群れは、ただやみくもに広がっていく"病"なんかじゃない。親がいて、子がいて、命を、次から次へと繋いでいる。生きている。

 雫の頭の中で、遠い記憶が、コトリと、音を立てた。

 ──毒。かつて、酸素も、そう呼ばれていた。

 ずっと昔、まだ地球が若かったころ。あふれだした酸素は、それまでの小さな命たちにとって、まぎれもない猛毒だった。多くの命が息絶えた。けれども、生き残った命は、その毒を、逆に呼吸に変えて、体を作りかえていった。一番危険だと思われたものが、一番安全で大切なものに、変わったのだ。

 だとしたら。ウイルスと呼ばれて皆に恐れられている、この「小さな水の子たち」。この子たちも、本当は──。

 雫は、暗闇の中で、そっと、コハクの方を見た。コハクの体の奥が、あの琥珀色に、やわらかく灯っていた。まるで、雫と同じ考えに、たどりついたかのように。

↑ 目次に戻る