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第九章

還る

別れの前に、もうひとつだけ、しておきたいことがあった。

 雫は、仕切りの前に立ち、コハクに向かって、両手で、あのしるしを描いた。横に倒した八と、八つの玉。最初に交わした、あの言葉だ。──わたしたちは、同じきまりの上に立っている。この、終わりのない宇宙の、どこにいても。

 コハクは、脚をゆっくりと動かし、同じしるしを、返した。それから、もうひとつ、新しいしるしを描き足した。小さな円をふたつ、並べて。──雫には、意味が、すぐにわかった。水の分子。酸素の玉に、水素がふたつ、寄り添った形。

 水。愛。あなたと、わたしのあいだにも、それはあった。コハクは、そう言っていた。

 雫の目に、また、涙がにじんだ。今度は、隠さなかった。

 「またね」

 声にしても、コハクには届かない。それでも、雫は、口に出した。地球のことばで。コハクの体の奥が、ひときわ深く、琥珀色に灯った。届いたのだと、雫にはわかった。

 二つの船は、ゆっくりと、仕切りを解いた。互いの空気が、二度と混ざらないように。そして、静かに、離れていった。一隻は、金星の脇を抜けて、コハクのふるさとの方角へ。もう一隻は、大きく舵を切り、来た道を、まっすぐに引き返しはじめた。地球へ。

 帰り道は、長かった。

 雫は、その長い時間の中で、幾度も、水の子たちに出会った。物体E、物体F、物体G──宇宙船のプログラムは、律儀に、名前を割りふり続けた。けれど、雫はもう、恐れなかった。窓の外を横切る、小さな光の粒を見つけるたび、雫は、小さく手を振った。行っておいで、と。その先で、また誰かの熱を借りて、また誰かに水を届けて。

 どれほどの月日が流れただろう。船が、太陽系の、なつかしい光の輪に入ったとき、雫は、もう若くはなかった。それでも、目だけは、出発したときと同じ強さで、前を見ていた。

 青い星が、少しずつ、大きくなっていく。

 地球へ降り立った日、雫を出迎えた人々は、変わり果てた姿の雫を見て、言葉を失った。長い旅の果てに、雫が持ち帰ったのは、輝かしい発明でも、奇跡の治療薬でもなかった。ただ、ひとつの、静かな話だった。

 星を蝕んでいると思われていたものは、じつは、いのちを運ぶ、幸運のリレーだったこと。金星は、その先輩であること。恵みが目減りしても、分けあえば、誰も飢えずに済むこと。そして、遠い星で出会った、岩の姿をした友のこと。

 信じない人も、いた。鼻で笑う人も、いた。それでも、雫の話に、じっと耳を傾ける人が、少しずつ、増えていった。ひとりが誰かに話し、その誰かが、また別の誰かに話す。まるで、水の子たちが、星から星へ、熱と水を手渡していくように。

 人から人へ。

 幸運は、ゆっくりと、地球のうえを、伝播していった。

 夜、ひとりになると、雫は今でも、窓から空を見上げる。あの日と同じ、まぶたの裏の光の散らばりを、思い出しながら。宇宙は、外にあるだけじゃない。わたしの体のなかにも、めぐっている。そして、たぶん、あなたの中にも。

 遠い金星の方角に、小さな光が、また一つ、飛んでいくのが見えた気がした。

(完)

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