その日、橘ハヅキは牛丼を三杯食べた。
理由は単純で、朝から何も食べていなかったからだ。そして夜中の二時まで働くことが決まっていたからだ。
「橘さん。それ、朝ごはん?」
「昼ごはんと、夜ごはんと、明日の朝ごはん」
「一気に?」
「時間を節約してるの」
ハヅキは紅生姜を山盛りにした。二十四歳。派遣。データ整備の仕事を始めて三年目。
この会社――株式会社ナユタ――がやっているのは、名寄せという作業だった。
複数のデータベースに散らばった人の記録を突き合わせて、同じ人かどうかを判定する。同じなら、まとめる。違うなら、分ける。
つまりハヅキの仕事は、毎日、何百回も「どっちが正しいか」を決めることだった。
午後十一時。
フロアには三人しか残っていなかった。
ハヅキの画面に、赤い行が一つ出た。
判定不能:類似レコード検出(3件)
「またか」
こういうのは日に何十件も出る。住所の表記ゆれ、生年月日の入力ミス、漢字の異体字。渡辺、渡邉、渡邊。全部で三十種類以上ある。
ハヅキは慣れた手つきで展開した。
そして、手が止まった。
[A] 小原 志乃 オハラ シノ 1931/03/04 (故)
[B] 小原 志乃 オバラ シノ 1931/03/04 (故)
[C] 小原 志乃 オパラ シノ 1931/03/04 (故)
「……ん?」
生年月日が完全に一致。漢字も完全に一致。違うのは読みだけ。
オハラ。オバラ。
ここまでは、よくある。小原という姓は、家によって「おはら」とも「おばら」とも読む。実際にどちらも存在する。
問題は三行目だった。
「オパラ?」
ハヅキは画面に顔を近づけた。
「オパラって、何」
日本に「おぱら」という姓は存在しない。ハヅキは三年間、何百万件の名前を見てきた。パ行から始まる姓は、ほぼない。あっても外来のものだ。
入力ミス、と思った。誰かが濁点のつもりで半濁点を打った。よくある。よくある、はずだ。
ハヅキはレコードCの詳細を開いた。
そして、二秒、固まった。
登録日:明治5年3月
出典:旧壬申戸籍 転記記録(第4次デジタル化)
更新履歴:なし
「……更新履歴、なし?」
明治五年に登録されて、百五十年以上、一度も直されていない。
一度も。
誰も、間違いだと思わなかった。
ハヅキは椅子の背にもたれた。天井の蛍光灯が一本、切れかけて明滅していた。
そして、次に開いた画面で――
「うわっ」
思わず声が出た。
照合先ノード:SHIMA-00
見たことのないコードだった。三年やって、初めてだった。
ハヅキはそのコードを検索窓に打ち込んだ。
アクセス権限がありません。
「はあ?」
もう一度打った。
アクセス権限がありません。
「見せられないデータって何」
隣の席の先輩が、帰り支度をしながら振り返った。
「橘さん、まだ帰らないの」
「先輩。SHIMAって知ってます?」
先輩の手が、止まった。
ほんの一瞬だった。でもハヅキは、その一瞬を見た。三年間、人の記録の中の「一瞬のずれ」を見つけることで給料をもらってきた人間だ。見逃すはずがなかった。
「……知らないな」
先輩はコートを着て、そのまま出ていった。
ハヅキは画面を見た。
小原志乃。三人。同じ生年月日。同じ漢字。
は、ば、ぱ。
「三人目のあんた、誰なの」
牛丼の空の容器が三つ、机の端に積み上がっていた。