橘ハヅキには、生まれつきの敵がいた。
自分の名前である。
橘 葉月(たちばな はづき)
問題は「づ」だった。
役所は「はづき」で登録した。学校は「はずき」で登録した。銀行は「はづき」。保険は「はずき」。免許は「はづき」。ポイントカードは「はずき」。
小学校の卒業証書は「はずき」で、中学校の卒業証書は「はづき」だった。
「同じ名前なのに、なんで書類が通らないんですか」
窓口で何度そう言ったか、覚えていない。
「別人として登録されておりまして」
「私、一人しかいませんけど」
「システム上は、二人です」
そのたびにハヅキは思った。
私を二人にしてるのは、私じゃない。
だからこの仕事を選んだ。名寄せ。散らばった人間を、一人に戻す仕事。
そう思っていた。
三年やって、少し違うことがわかってきた。
この仕事は、一人に戻す仕事ではない。どちらかを消す仕事だ。
翌朝、ハヅキは定時の三十分前に出社した。
出社したのは、聞きたいことがあったからだ。
「甲賀さん」
統括の甲賀ミサキが、コーヒーを片手に振り返った。四十代前半。この現場の責任者。ハヅキが知る限り、この人が判断を間違えたところを見たことがない。
「橘さん。早いわね」
「SHIMA-00って、何ですか」
甲賀の表情は、まったく変わらなかった。
「保留領域よ」
「即答ですね」
「隠すようなものじゃないから」甲賀はコーヒーを一口飲んだ。「判定できなかったレコードを、一時的に置いておく場所。ゴミ箱じゃない。まだ捨ててないだけ」
「何件くらい入ってるんですか」
「二万件くらい」
ハヅキは目を丸くした。
「二万!?」
「大きな声出さないの」
「二万人が、判定されないまま置いてあるってことですか」
「置いてあるんじゃなくて、これから判定するのよ」甲賀は端末を指した。「今回の事業の目的、知ってるでしょ」
知っていた。この三年、それしかやっていない。
戸籍フリガナ整備事業。
日本の戸籍には、長いあいだ「読み」が記載されていなかった。漢字だけがあった。
「高橋」と書いてあれば、それが「たかはし」なのか「たかばし」なのかは、戸籍を見てもわからない。読みは、口の中にしかなかった。声にしかなかった。
それが法律で変わった。全国民の名前の読みを、公式に登録する。
日本史上、初めて。
一億二千万人の「読み」が、初めて機械の読めるデータになった。
「明治から百五十年ぶんの記録を、一気に読み仮名つきで統合してるの」と甲賀は言った。「そりゃ二万件くらい、はみ出すわよ」
「私、はみ出したことあります」
「知ってる」
「え」
「橘さんのレコード、SHIMAに入ってるから」
ハヅキは、口を開けたまま、三秒止まった。
「……私、島にいるんですか」
「四番目くらいに古いわね」
甲賀はコーヒーを飲み干して、紙コップをゴミ箱に落とした。
「だから任せたの、この案件。当事者のほうが、たぶん粘る」
その日の午後、ハヅキはSHIMA-00のアクセス権を渡された。
開いた瞬間、画面が真っ黒になった。
読み込んでいるのだ。二万件を。
三十秒かかった。三十秒というのは、この会社のシステムでは異常な長さだった。
そして、表示された。
延々と続く名前。名前。名前。
橋本、はしもと/はしもと(濁点位置差異) 中島、なかじま/なかしま 神谷、かみや/かみたに 小原、おはら/おばら/おぱら 山崎、やまざき/やまさき 日下部、くさかべ/くさかべ(送り仮名差異) ……
ハヅキはスクロールした。スクロールした。スクロールが終わらなかった。
そして気づいた。
「……これ、全部」
は行と、四つ仮名と、濁点。
二万件のほぼ全部が、たった三種類の揺れだった。
「日本語、こんなに揺れてるの?」
ハヅキは呟いた。
そのとき、画面の右下に、通知が出た。
SHIMA-00 への外部アクセスが検出されました。
「え」
アクセス元:未登録端末
ハヅキは椅子から半分立ち上がった。
現在も接続中です。
「甲賀さん!」
叫んだときには、通知は消えていた。
そして、二万件のリストの一番上に、さっきまでなかった行が一つ、増えていた。
[?] 御門 十郎 ミカド ジュウロウ ―
備考欄に、一行だけ書いてあった。
「縦に読め」