← 濁点島 目次

エピローグ

三人目の小原さん

一年後。

システムの改修が終わった日、ハヅキは、最後の作業をした。

小原志乃のレコードを開いた。

三行、並んでいた。

[A] 小原 志乃  オハラ シノ  1931/03/04  (故) 【複数読み確定】
[B] 小原 志乃  オバラ シノ  1931/03/04  (故) 【複数読み確定】
[C] 小原 志乃  オパラ シノ  1931/03/04  (故) 【注記】

ハヅキは、[C]の注記欄を開いた。

そして、書いた。

明治5年3月、聞き取りによる登録。

当時、ハ行の一部にパ行に近い発音が残存していた可能性がある。

同時期の全国記録において、同様の表記が734件確認されている。

誤記と断定できないため、注記として保存する。

記録者:橘葉月

ハヅキは、保存ボタンを押した。

小さな音がして、保存された。

これは、保存された。

ずっと残る。

その夜、ハヅキは神保町に行った。

御門の仕事場は、相変わらず活字だらけだった。

ベンが、床に座って、本を読んでいた。修士論文が通って、博士課程に進んでいた。テーマは「近代日本におけるパ行表記の分布」だった。

「橘さん! 見てくださいこれ! 学会で発表するんですよ!」

「うるさい」御門が言った。

「九十九さんの箱、全部データにしたんです。四千二百枚!」

「よかったね」

「よかったですよ! 誰も相手にしてくれなかったんですよ、四十年前は!」

ベンは、目を輝かせた。

「今回は、三人も質問してくれました!」

「三人」

「三人です! 大進歩です!」

ハヅキは、笑った。

御門が、端末を出した。

「橘。見せたいものがある」

「なんですか」

御門は、キーを押した。

画面に、渦が現れた。

名前の渦。点の線。

だが、前とは違っていた。

「増えてる」

「増えた」御門は言った。「複数読みで確定した人が、自分から申告してくるようになった」

「何件ですか」

「二万八千」

ハヅキは、目を見張った。

「増えたんですか」

「増えた」

御門は言った。

「島は、消えなかった。大きくなった

ハヅキは、その渦を、見つめた。

長い、細い、点の線。

四十二メートルが、九十メートルになっていた。

「御門さん」

「なんだ」

「これ、保存できないんですよね」

「できない」

「じゃあ」

ハヅキは、椅子を引いて、座った。

「ずっと見てます」

御門は、何も言わなかった。

ベンが、本を閉じた。

三人は、しばらく、渦を見ていた。

北緯零度、東経零度。

大西洋の、ギニア湾の、真ん中。

陸地はない。深さは五千メートル近い。

そこに、観測ブイが一基だけ、浮いている。

世界中の、行き場を失ったデータが、そこに落ちる。

誰も住んでいないのに、地図の上では、何万人もが住んでいることになっている。

存在しないのに、座標だけは正確な島。

ハヅキは、ポケットから、活字を出した。

丸が一つ、彫られた金属。

余りもの。

減らずに残ったもの。

手のひらに乗せると、まだ重かった。

ハヅキは、その丸を、指でなぞった。

そして、口の中で、小さく言ってみた。

ぱぱ。

唇が、二度、合わさった。

〇の中に、点があるところを、思い浮かべた。

割れていなかった。

↑ 目次に戻る