その週の終わり。
蓮は水筒の麦茶を飲みながら、ふと聞いた。
「涼子さん、座禅の話、もう少し聞いてもいいですか?」
「なに?」
「薪をくべない練習だって言ってましたよね。それって、感じたことを、無視するってことですか」
涼子は少し首を振った。
「逆」
「逆?」
「無視じゃなくて、もっとちゃんと感じるための練習」
蓮はわからないという顔をした。
涼子は水筒を机に置いた。
「高橋くん、冬の外気って、何度まで下がっても、エアコンは熱を取り出せると思う?」
「氷点下だと、もう無理なんじゃないですか?」
「無理じゃない。氷点下十何度でも、ちゃんと動くように作られてる機種もある。空気の中には、人間が"冷たい"って感じる温度でも、まだ動かせるだけの熱が残ってるから」
「そんなに残ってるんですか、寒くても」
「残ってる。ただ、人間の感覚だと、それに気づけない。冷たいとしか感じない」
蓮は水筒を握った。
「エアコンは、冷媒っていう特別な液体を使って、それを検知して取り出してる。人間で言うと、センサー性能の差」
「涼子さんの言う、座禅は」
「そのセンサーの精度を上げる練習」と涼子は言った。「感じないようにするんじゃなくて、そこに何があるか、正確に感じ取れるようにする」
蓮は少し黙った。
その夜、蓮は家のリビングで、娘と少しだけ遊んだ。
いつもなら、スマホを見ながら適当に相手をするだけなんだが、その日は、スマホを置いてみた。
娘が積み木を積んで、崩れて、笑った。
俺、今、楽しいのか。
自分でもよくわからなかった。
でも、いつもよりずっと長く、その場に座っていた。
娘が寝たあと、妻がリビングに来て言った。
「今日、なんか機嫌よかったね」
「そう見えた?」
「うん。珍しく」
蓮は少し考えた。
「機嫌がよかったわけじゃないんだ。たぶん、前からあったものに、今日初めて気づいただけ」
妻は意味がわからないという顔をした。
蓮も、うまく説明できなかった。
ただ、寒い日に手をかざしたら、思ったより暖かかった、というような感覚だった。
翌日の昼休み。
「昨日、娘と遊んでたら、なんか、気づいたことがあって…」
「どんなこと?」
「俺、いつも次の楽しいことを探しに行ってたんです。もっとワクワクすること、もっと盛り上がること。でも昨日、何もない時間に、なんか、ちゃんと満ちてる感じがしました」
涼子は麦茶を飲んだ。
「それだよ」
「それって」
「何かを新しく作らなくても、すでに足りてたってこと。高橋くんが今まで探してた"熱"は、たぶん最初から、そこにあった」
蓮は黙った。
「気づかなかっただけ、ってことですか?俺、ずっと」
「みんなそうだよ」と涼子は言った。「気づいてないだけで、もともと持ってる人の方が多い。だから偉い人たちは、新しく何かを得るためじゃなくて、もう持ってるものに気づくために、座って、目を閉じるんだと思う」
蓮は水筒の麦茶を飲んだ。冷たかった。
冷たいのに、なぜか温かい気がした。