二〇〇六年の六月。
甲賀ミサキは、二十四歳で、派遣で、その日、生まれて初めて上司に怒鳴られた。
「だから、どっちかが嘘なんだって言ってるだろう」
「どっちも嘘じゃないと思います」
「なんで」
「わかりません」
「わからないのに、なんでそう思うんだ」
ミサキは、正直に答えた。
「勘です」
室井は、椅子ごと後ろに倒れそうになった。
事の起こりは、二枚の紙だった。
ミサキが働いていたのは、気象観測データの整理を請け負う小さな会社だった。ある国際共同観測の、記録の突き合わせ。それが今回の仕事だった。
観測所は二つ。
一つは、千葉県の館山。北緯三十五度。
もう一つは、ニュージーランドのダニーデン。南緯四十六度。
同じ日、同じ時刻、同じ型の機器で、同じ現象を記録する。それを照合して、一本の報告にまとめる。
単純な仕事のはずだった。
ミサキは、二枚の記録を並べた。
館山 回転方向:右回り(時計回り)
ダニーデン 回転方向:左回り(反時計回り)
「逆じゃないですか」
「逆だな」
「逆でいいんですか」
「よくない」室井は言った。「同じ現象を、同じ手順で測って、逆になるわけがない」
「じゃあ」
「どっちかが、書き間違えたか、直したか、作った」
ミサキは、その二行を、じっと見ていた。
「二人とも、書き間違えてない気がします」
「だから、なんでだよ」
「字が、丁寧だからです」
室井は、しばらく黙った。
「……甲賀」
「はい」
「お前、理系か」
「文系です」
「大学は」
「行ってません」
室井は、両手で顔をこすった。
「じゃあ、この仕事、なんで受けた」
「派遣なので」
「そうだったな」
室井は、二枚の紙を、机に放った。
「三週間やる。どっちが嘘か、突き止めろ」
ミサキは、紙を拾った。
そして、言った。
「三週間で、両方本当だとわかったら、どうします」
室井は、笑わなかった。
「そのときは、俺が困る」