東京、六月
六月になって、麻衣は美術館へ行った。
一人で行くつもりだった。 でも前日の夜、颯太からメッセージが来た。
明日暇
麻衣は少し考えた。 一人で行くつもりだった。でも——
マティス展、行く?
颯太からすぐ返事が来た。
行く
これが選ぶ、ということだ、と麻衣は思った。 誰かに選ばれたのではなく。流れに乗ったのでもなく。 麻衣が、颯太を、この日のために、選んだ。
美術館は混んでいた。 六月の日曜日。 家族連れ、カップル、年配の夫婦。麻衣と颯太は少し離れて歩いた。 くっついて歩く必要がなかった。 それが二人にとって自然だった。
マティスの絵が並んでいた。
赤い部屋。青い窓。踊る人たち。金魚鉢。花。また花。また赤。
麻衣は一枚の前で止まった。
室内の絵だった。 窓が開いていて、外の光が入ってきている。 部屋の中に女が一人、椅子に座っている。 何をしているのかはわからない。 ただそこにいる。 窓の外には緑が見える。
赤いカーテンが、窓の両側にあった。
麻衣は絵をじっと見た。 このカーテンを、知っている。 この光の入り方を、知っている。 この部屋の空気の重さを——夜と昼の境目の、あの時間の重さを——知っている。
マティスは見ていた。
あの夜、サロンに来て、ただ座って、見ていた。 誰も気づかないものを、見ていた。 そしてこの絵の中に、残した。 百年以上経っても、ここにある。
「これ好き?」と颯太が隣に来て言った。
「知ってる絵だと思う」と麻衣は言った。
颯太は絵を見た。 「どこかで見た?」
「夢で」
颯太は何も言わなかった。 でも隣に立ったまま、一緒に絵を見た。 それだけでよかった。
美術館を出ると、夏の光だった。
眩しくて、麻衣は目を細めた。 颯太も同じように目を細めて、空を見上げた。
「腹減った」と颯太は言った。
「減った」と麻衣は言った。
二人で歩いた。 どこへ行くか、決めていなかった。 でも足は自然に動いた。 商店街の方へ。日差しの中へ。
麻衣は歩きながら、ふと思った。
ネフェルウは塔の上で歌った。歌うために生まれてきた魂だった。でも語ることを拒んで、死んだ。 セリーヌは聞き続けた。聞くことしかできなかった。 マドレーヌは管理した。十五年かけて、ようやく女たちの名前を呼んだ。
では麻衣は何のためにここに来たのか。
答えは、まだわからない。 でも今日のところは——マティスの絵の前に立つために来た。 颯太と一緒に、眩しい六月の光の中を歩くために来た。 誰かの「自分で決めたんです」という言葉を、書類にするために来た。
それで十分だ。
十分すぎるくらいだ。
その夜、麻衣は事務所の机の引き出しを開けた。
名刺があった。Choisir.
名刺の裏に、麻衣は何か書きたくなった。 ペンを取った。 何を書くか、考えた。
長い言葉は要らなかった。
ただ一言だけ書いた。
選んだ。
名刺を引き出しに戻した。
窓の外は夜だった。 東京の夜。光の多い夜。星は見えない。 でもその向こうに星があることを、麻衣は知っていた。 星の間に歌があることを、知っていた。
知っていることを——これからも、少しずつ、話していく。
書類にしていく。
誰かの選択を、世界に届けていく。
ナイルはまだ流れている。 黒い土はまだ運ばれている。 どこかで緑が育っている。
麻衣は電気を消した。
鍵をかけた。
階段を降りた。
夜の中へ、歩いていった。
ネフェルウは語らなかった。でも歌は残った。 セリーヌは選べなかった。でも言葉は残った。 マドレーヌは見なかった。でも名前は残った。 麻衣は、選んだ。
川は、まだ流れている。
了