でも、体だけ作っても意味がない。
幸はそう思った。
人間というのは、体と魂で構成されている。 少なくとも幸はそう思っている。 体は魂が三次元を体験するための乗り物だ。
乗り物だけ作っても、乗り手がいなければ動かない。
では、魂はどこから来るのか。
幸の考えでは、魂は本来、肉体を持っていない。
肉体のない状態で、どこかに存在している。 意識として。エネルギー体として。情報として。
その魂が、三次元を体験したいと思った時、肉体に入る。
でも、全ての魂が肉体に入れるわけではない。 魂と肉体には相性がある。 どんな肉体でも魂が入れるなら、地球上に肉体を持てない魂など存在しないはずだ。 でも実際には、肉体化できない魂が大量にいると、幸は感じていた。
三次元というのは、物質が存在する空間だ。 重さがあり、温度があり、痛みがあり、喜びがある。 匂いがあり、音がある。
それは、肉体のない状態では体験できないことだ。
アトラクションとして、三次元は存在しているのではないか。
魂が乗り込むための、体験施設として。喜びも悲しみも、全部含めて体感するための場所として。
そのアトラクションに乗るための「乗り物」が、人体だ。
ネフィリムについて、幸はもう一度考えた。
ネフィリムは「天の存在」と「地の人間」の混血だと聖書は言う。
でも幸の解釈は少し違う。
ネフィリムとは、もともと肉体化できなかった魂の集合体ではないか。
肉体に入りたい。三次元を体験したい。 でも、相性の良い人体が存在しない。 あるいは、相性の良い体を作る方法を知らない。
そこで、強引に入り込んだ。
地球にもともとあった人体——本来の人間、一寸法師のような小さな存在——の遺伝子を改変して、自分たちが入れる体を作った。
その結果生まれたのが、ネフィリムだ。 巨大化した、改変された人体。
改変は、一度で終わらなかった。 世代を重ねるごとに、改変は広がった。 本来の人間の遺伝子が薄まり、ネフィリムの遺伝子が濃くなっていった。
そして今——
私たちの中に、本来の人間の遺伝子は、どれくらい残っているのだろうか。
善と悪という概念を、幸はこの話に当てはめない。
ネフィリムが悪で、本来の人間が善だとは思わない。
ネフィリムもただ、肉体を持ちたかっただけだ。 三次元を体験したかっただけだ。 その欲求は、理解できる。 理解できるから、責めることもできない。
ただ、問題がある。
自己中心的な欲求は、循環を止める。
三次元というアトラクションは、循環によって成立している。 命が生まれ、生き、死に、また生まれる。 エネルギーが流れ、変換され、また流れる。 その循環があるから、アトラクションは動き続ける。
でも、自分だけのために、循環を止めようとする存在が増えると——
アトラクション全体が、機能しなくなる。
肉体のない魂が入れる体がなくなれば、三次元を体験できる存在がいなくなる。 それは誰にとっても、損失だ。 ネフィリム系の魂にとっても、本来の人間系の魂にとっても。
だから、循環は必要だ。
善悪ではなく、機能の問題として。 アトラクションを維持するために、循環は必要だ。