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第九章

財布

その夜、誠は彩香に聞いた。

「彩香。財布に現金、いくら入ってる?」

 彩香はスマートフォンから顔を上げなかった。

「入ってないよ。てか財布持ってない」

「じゃあ、明日の昼飯は?」

「スマホ決済」

 誠はなんとなく自分の財布を出して、中身を見た。 二万三千円入っていた。 会社の若い連中は、ほとんど現金を持っていない。 多い方だと思う。

そして、気づいた。

 自分が動揺していたのは、金が足りないことではなかった。 残高は足りている。 そうではなくて、その残高に見合う紙幣が、どこにも存在しないということだった。 そのたった一点で、あれだけ落ち着かなくなった。

 でも彩香には、そもそも現金という概念がない。 この子にとって、お金は最初から数字だ。 数字が数字のまま動いて、数字のまま減る。 紙幣とスマホの残高の違いのことなんて、多分、一度も考えたことがないだろう。 だとしたら「銀行に、金(紙幣)はないらしいよ」と教えたところで、何も驚かない。

 誠には、それが、ほんの少し羨ましくて、怖かった。

 ニュースで、中央銀行がデジタル通貨の実験をしていると話していた。 紙幣そのものを、いずれ数字というデータに置き換えていくらしい。

 今日時点では、まだ、窓口へ行って「現金でください」と言うことができる。 全員分の紙幣は物理的にないが、誠一人分位ならある。 確かめに行くという選択肢は、まだ残っている。 あの日、誠が使ったのはそれだった。

 紙幣が完全になくなったら、残高確認はどうするのだろう? 画面上の数字確認。 それだけになる。

物質として手に取り確認できるお金=紙幣

データ上の数字=デジタルマネー

その信用の担保はどうなるのだろう? 誰がルールを決めるのだろう?

 彩香がスマートフォンを置いて、立ち上がった。

「お父さん、また変な顔してる」

「そうか」

「そんなに深刻な顔して、楽しい?」

 誠は少し考えて、正直に答えた。

「楽しくはない。でも、知らないよりはいい」

 彩香は「ふうん」と言って、部屋に戻っていった。

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