その夜、誠は彩香に聞いた。
「彩香。財布に現金、いくら入ってる?」
彩香はスマートフォンから顔を上げなかった。
「入ってないよ。てか財布持ってない」
「じゃあ、明日の昼飯は?」
「スマホ決済」
誠はなんとなく自分の財布を出して、中身を見た。 二万三千円入っていた。 会社の若い連中は、ほとんど現金を持っていない。 多い方だと思う。
そして、気づいた。
自分が動揺していたのは、金が足りないことではなかった。 残高は足りている。 そうではなくて、その残高に見合う紙幣が、どこにも存在しないということだった。 そのたった一点で、あれだけ落ち着かなくなった。
でも彩香には、そもそも現金という概念がない。 この子にとって、お金は最初から数字だ。 数字が数字のまま動いて、数字のまま減る。 紙幣とスマホの残高の違いのことなんて、多分、一度も考えたことがないだろう。 だとしたら「銀行に、金(紙幣)はないらしいよ」と教えたところで、何も驚かない。
誠には、それが、ほんの少し羨ましくて、怖かった。
ニュースで、中央銀行がデジタル通貨の実験をしていると話していた。 紙幣そのものを、いずれ数字というデータに置き換えていくらしい。
今日時点では、まだ、窓口へ行って「現金でください」と言うことができる。 全員分の紙幣は物理的にないが、誠一人分位ならある。 確かめに行くという選択肢は、まだ残っている。 あの日、誠が使ったのはそれだった。
紙幣が完全になくなったら、残高確認はどうするのだろう? 画面上の数字確認。 それだけになる。
物質として手に取り確認できるお金=紙幣
データ上の数字=デジタルマネー
その信用の担保はどうなるのだろう? 誰がルールを決めるのだろう?
彩香がスマートフォンを置いて、立ち上がった。
「お父さん、また変な顔してる」
「そうか」
「そんなに深刻な顔して、楽しい?」
誠は少し考えて、正直に答えた。
「楽しくはない。でも、知らないよりはいい」
彩香は「ふうん」と言って、部屋に戻っていった。