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第十章

甲賀という読み

会議は、翌日の午後三時に決まった。

出席者は、発注元の担当部長、システム部長、甲賀、そして――

「派遣社員が出席するの、前例がないんだけど」

甲賀は言った。

「前例、作りましょうよ」

「あなた、怖いもの知らずね」

「怖いですよ。めちゃくちゃ怖いです」

ハヅキは、正直に言った。手が震えていた。

甲賀は、その手を見た。

「橘さん」

「はい」

「私の名前、なんて読む?」

ハヅキは、顔を上げた。

「……こうが、さん」

「うん。みんなそう呼ぶ」

甲賀は、机の引き出しから、一枚の紙を出した。

戸籍の写しだった。

そこに、フリガナが振ってあった。

コウカ

ハヅキは、その二文字を見つめた。

「……こうか?」

「そう。私の戸籍は、こうか」

甲賀は、紙をしまった。

「三年前、フリガナ登録の通知が来たとき、初めて知ったの。四十年、こうがだと思って生きてきて」

「訂正、しなかったんですか」

「しなかった」

「なんでですか」

甲賀は、少し笑った。

どっちも私だと思ったから

ハヅキは、息を呑んだ。

「でも、私はこの仕事で、毎日それを一つに決めてる」甲賀は言った。「自分にはできないことを、他人にやってる」

甲賀は、椅子を回した。

「橘さん。私が統合派なのは、本心よ。決めないと、しわ寄せは弱い人に行く。それは絶対に譲らない」

「はい」

「でも」

甲賀は、ハヅキを見た。

決めないという決め方があるなら、話は別」

ハヅキは、深く頷いた。

「あります」

「あるの?」

「ありました」ハヅキは言った。「千年前から」

甲賀は、目を細めた。

「面白いじゃない」

そのとき、ハヅキの携帯が鳴った。

知らない番号だった。

「もしもし」

「橘さんですか」

女性の声だった。

「九十九の、娘です」

ハヅキの心臓が、跳ねた。

「……九十九さん、は」

「昨夜、亡くなりました」

フロアの音が、遠くなった。

「三ヶ月と言われてたんですけど、二週間でした」

「……そうですか」

「父が、あなたに渡すものがあると言っていて」

「なんでしょうか」

「箱を、三十一個渡したはずだが、と」

ハヅキは、フロアの隅を見た。

段ボールが、積んである。

「三十個です」

「もう一個、うちにあります」

女性は言った。

「開けるなと言われてました。橘という人が来たら渡せ、と」

ハヅキは、立ち上がった。

「今から、伺います」

「会議は!?」

甲賀が叫んだ。

「三時ですよね! 間に合わせます!」

ハヅキは、走った。

千葉の家は、静かだった。

線香の匂いがした。

祭壇に、写真があった。

九十九は、写真の中でも、笑っていなかった。

ハヅキは、手を合わせた。

「三十一個目です」

娘が、小さな箱を持ってきた。

段ボールではなかった。木の箱だった。

古い箱だった。

ハヅキは、蓋を開けた。

中に入っていたのは、紙一枚と、小さな金属の塊だった。

活字だった。

「……これ」

ハヅキは、活字をつまんだ。

裏返した。

彫ってあったのは。

半濁点。それだけ。

一文字ぶんの金属に、丸が一つ、彫ってあった。

ハヅキは、紙を開いた。

九十九の、震える字が並んでいた。

橘さんへ

この活字は、私の父のものです。

父は印刷工でした。戦前から、活字を組む仕事をしていました。

ある日、父が言ったことがあります。

「半濁点の活字は、いつも余る」

使う機会が少ないからです。ぱ行は、日本語ではあまり出てこない。

だから活字箱の中で、半濁点だけが、いつも減らずに残っていたそうです。

父はそれを「余りもの」と呼んで、笑っていました。

私は、その言葉を、ずっと覚えていました。

余りもの。

どこにも属さず、使われず、減らずに、残るもの。

私が島を作ったのは、たぶん、そのせいです。

理屈は後から付けました。本当は、あの活字箱の話が、最初にありました。

私は三十年、余りものを集めてきました。

集めただけで、何もできませんでした。

あなたは、何かできるかもしれない。できないかもしれない。

どちらでも構いません。

ただ、余りものが、余りものとして存在していたことを、

誰かが知っていてくれれば、それでいい。

九十九

ハヅキは、紙を持ったまま、動けなかった。

娘が、静かに言った。

「父は、名前を捨てたと言ってましたけど」

「はい」

「本当は、捨てられたんです」

ハヅキは、顔を上げた。

「父の名前は、戸籍の電子化のときに、文字化けして消えたんです」

「……え」

「珍しい漢字だったので、機械が読めなくて。そのまま空欄になって、直せなくて」

娘は、祭壇を見た。

「父は自分が作ったシステムに、自分の名前を消されたんです」

ハヅキは、写真を見た。

九十九。下の名前はない。

捨てた、と本人は言った。

ハヅキは、活字を握りしめた。

金属が、手のひらに食い込んだ。

重かった。

「……絶対に、勝ちます」

ハヅキは、言った。

「絶対に、です」

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