会議室に戻ったのは、二時五十五分だった。
ハヅキは、息を切らせていた。髪がぐしゃぐしゃだった。
「橘さん、髪」
「あとで直します」
「今直しなさい」
甲賀が、櫛を差し出した。
会議室には、五人がいた。
発注元の担当部長。五十代。穏やかな顔をしていた。
システム部長。四十代。眼鏡。
甲賀。ハヅキ。そして御門が、外部協力者として、末席に座っていた。
ベンは、部屋の外の廊下で、床に座って待っていた。中に入れる人数の枠がなかった。
「では、始めましょうか」
担当部長が、言った。
「橘さん、でしたか。派遣の方から提案があるというのは初めてです。楽しみです」
嫌味ではなかった。本当に、そう思っている顔だった。
ハヅキは、立ち上がった。
「株式会社ナユタ、橘葉月です」
そして、言った。
「私の名前は、二つあります」
部屋が、静かになった。
「はづき、と、はずき。どちらも役所に登録されています。私は二十四年間、システム上、二人でした」
ハヅキは、資料を配った。
「今、この事業で消されようとしている一万九千件のうち、一万二千八百四十一件が、生きている人です」
担当部長が、資料をめくった。
「多いですね」
「多いです。そのうち九人に、直接会いました」
「……会った?」
システム部長が、顔を上げた。
「はい。昨日、一日で。電話では、あと二十二人と話しました」
「それは、業務としてですか」
「業務外です。自費です」
システム部長は、眼鏡を押し上げた。
「……続けてください」
ハヅキは、十五分話した。
板橋の老人。江戸川の双子。中野の男。品川の学生。
七百三十四件の、明治のパ行の記録。
明治十一年の、三世代が同じ紙に並んだ記録。
甲賀が、黙って聞いていた。
御門が、黙って聞いていた。
そして、担当部長が、言った。
「素晴らしい調査です」
ハヅキの背筋が、伸びた。
「本当に、素晴らしい。感動しました」
そして、担当部長は、静かに続けた。
「ですが、寄贈をお願いすることになると思います」
甲賀が、目を閉じた。
来た、と思った。
「学術的な価値は疑いません。国立の研究機関に寄贈していただければ、大切に保管されます」担当部長は言った。「しかし、行政の基幹データベースは、資料の保管庫ではありません」
「わかっています」
「わかっている?」
「はい」ハヅキは言った。「だから、資料の話は、ここで終わりです」
部屋の空気が、動いた。
「では、何の話をされるんですか」
ハヅキは、深く息を吸った。
「設計の話です」
ハヅキは、ホワイトボードの前に立った。
そして、書いた。
保留領域 SHIMA-00
「この保留領域には、内部で使われている座標があります。ご存じでしょうか」
システム部長が、首を傾げた。
「座標?」
「住所が判定できないレコードは、位置情報の欄に、初期値が入ります」
ハヅキは、書いた。
緯度 0.000000 経度 0.000000
「北緯零度、東経零度」
「ああ」システム部長が言った。「ヌルアイランドですね」
「ご存じですか」
「有名です。技術者の間では」システム部長は、少し笑った。「実在しない島です。大西洋の真ん中で、陸地はありません。ただの海です」
「はい」ハヅキは言った。「そして世界中の、行き場を失ったデータが、そこに落ちます」
システム部長は、頷いた。
「地図に表示させると、そこに何万人も住んでいるように見えます。誰も住んでいないのに」
「その通りです」ハヅキは言った。「九十九さんは、それを知っていて、保留領域に『島』という名前を付けました」
担当部長が、言った。
「では、島の名前の由来はわかりました。それが、設計の話とどう繋がるんでしょうか」
ハヅキは、ホワイトボードに向き直った。
「今のシステムには、状態が二つしかありません」
そして、書いた。
① 統合済み ② 未処理
「そして、②は、放っておけば①になります。未処理は、処理されるべきものだからです。当然です」
「当然ですね」
「だから島は消えます。消そうとしている人が悪いんじゃない。未処理という状態しかないから、消えるんです」
ハヅキは、振り返った。
「必要なのは、三つ目の状態です」
そして、書いた。
③ 複数読み(確定)
部屋が、静かになった。
「未処理じゃない。確定です」ハヅキは言った。「読みが複数あるということを、確定させる状態です」
システム部長が、腕を組んだ。
「……それは、逃げでは」
「逃げに見えますよね」
「見えます」
「でも、逃げじゃないんです」ハヅキは言った。「日本語は、千年前から、それをやってるからです」