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第十一章

北緯零度、東経零度

会議室に戻ったのは、二時五十五分だった。

ハヅキは、息を切らせていた。髪がぐしゃぐしゃだった。

「橘さん、髪」

「あとで直します」

「今直しなさい」

甲賀が、櫛を差し出した。

会議室には、五人がいた。

発注元の担当部長。五十代。穏やかな顔をしていた。

システム部長。四十代。眼鏡。

甲賀。ハヅキ。そして御門が、外部協力者として、末席に座っていた。

ベンは、部屋の外の廊下で、床に座って待っていた。中に入れる人数の枠がなかった。

「では、始めましょうか」

担当部長が、言った。

「橘さん、でしたか。派遣の方から提案があるというのは初めてです。楽しみです」

嫌味ではなかった。本当に、そう思っている顔だった。

ハヅキは、立ち上がった。

「株式会社ナユタ、橘葉月です」

そして、言った。

私の名前は、二つあります

部屋が、静かになった。

「はづき、と、はずき。どちらも役所に登録されています。私は二十四年間、システム上、二人でした」

ハヅキは、資料を配った。

「今、この事業で消されようとしている一万九千件のうち、一万二千八百四十一件が、生きている人です」

担当部長が、資料をめくった。

「多いですね」

「多いです。そのうち九人に、直接会いました」

「……会った?」

システム部長が、顔を上げた。

「はい。昨日、一日で。電話では、あと二十二人と話しました」

「それは、業務としてですか」

「業務外です。自費です」

システム部長は、眼鏡を押し上げた。

「……続けてください」

ハヅキは、十五分話した。

板橋の老人。江戸川の双子。中野の男。品川の学生。

七百三十四件の、明治のパ行の記録。

明治十一年の、三世代が同じ紙に並んだ記録。

甲賀が、黙って聞いていた。

御門が、黙って聞いていた。

そして、担当部長が、言った。

「素晴らしい調査です」

ハヅキの背筋が、伸びた。

「本当に、素晴らしい。感動しました」

そして、担当部長は、静かに続けた。

「ですが、寄贈をお願いすることになると思います

甲賀が、目を閉じた。

来た、と思った。

「学術的な価値は疑いません。国立の研究機関に寄贈していただければ、大切に保管されます」担当部長は言った。「しかし、行政の基幹データベースは、資料の保管庫ではありません」

「わかっています」

「わかっている?」

「はい」ハヅキは言った。「だから、資料の話は、ここで終わりです」

部屋の空気が、動いた。

「では、何の話をされるんですか」

ハヅキは、深く息を吸った。

設計の話です」

ハヅキは、ホワイトボードの前に立った。

そして、書いた。

保留領域 SHIMA-00

「この保留領域には、内部で使われている座標があります。ご存じでしょうか」

システム部長が、首を傾げた。

「座標?」

「住所が判定できないレコードは、位置情報の欄に、初期値が入ります」

ハヅキは、書いた。

緯度 0.000000 経度 0.000000

「北緯零度、東経零度」

「ああ」システム部長が言った。「ヌルアイランドですね」

「ご存じですか」

「有名です。技術者の間では」システム部長は、少し笑った。「実在しない島です。大西洋の真ん中で、陸地はありません。ただの海です」

「はい」ハヅキは言った。「そして世界中の、行き場を失ったデータが、そこに落ちます

システム部長は、頷いた。

「地図に表示させると、そこに何万人も住んでいるように見えます。誰も住んでいないのに」

「その通りです」ハヅキは言った。「九十九さんは、それを知っていて、保留領域に『島』という名前を付けました」

担当部長が、言った。

「では、島の名前の由来はわかりました。それが、設計の話とどう繋がるんでしょうか」

ハヅキは、ホワイトボードに向き直った。

「今のシステムには、状態が二つしかありません

そして、書いた。

① 統合済み ② 未処理

「そして、②は、放っておけば①になります。未処理は、処理されるべきものだからです。当然です」

「当然ですね」

「だから島は消えます。消そうとしている人が悪いんじゃない。未処理という状態しかないから、消えるんです

ハヅキは、振り返った。

「必要なのは、三つ目の状態です」

そして、書いた。

③ 複数読み(確定)

部屋が、静かになった。

「未処理じゃない。確定です」ハヅキは言った。「読みが複数あるということを、確定させる状態です」

システム部長が、腕を組んだ。

「……それは、逃げでは」

「逃げに見えますよね」

「見えます」

「でも、逃げじゃないんです」ハヅキは言った。「日本語は、千年前から、それをやってるからです

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