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第十二章

三つ目

ハヅキは、ホワイトボードに書いた。

か が さ ざ た だ な ― は ば ぱ

「五十音表です。清音と、濁音」

「はい」

「か行は二つ。さ行は二つ。た行は二つ。な行は濁りません」

ハヅキは、は行の三つを、丸で囲んだ。

は行だけ、三つあります

システム部長が、身を乗り出した。

「……本当だ」

「三つ目には、名前がついています」

ハヅキは、書いた。

半濁音

「半分、です」

ハヅキは言った。

「濁っているとも、清んでいるとも、決められなかった。だから『半』と名付けられました」

担当部長が、資料から顔を上げた。

「決められなかったから、半」

「はい。そして重要なのは、ここからです」

ハヅキは、ペンを置いた。

「決められなかったものを、日本語は、捨てませんでした

部屋が、しんとした。

「五十音表の中に、正式に入れました。教科書に載せました。キーボードにキーを作りました。文字コードの規格に入れました」

ハヅキは、言った。

「千年以上、決められないものを、決めないまま運用してきたんです。それが日本語です」

システム部長が、ゆっくりと言った。

「……曖昧なまま、規格化した」

「はい」

「それは、たしかに設計だ」

ハヅキは、頷いた。

「私が提案しているのは、新しいことじゃありません。日本語がもともと持っている構造を、システムに戻すだけです」

担当部長が、指を組んだ。

「橘さん。実務の質問をしてもいいですか」

「どうぞ」

「複数読みで確定した人が、銀行の窓口に行ったら、どうなりますか」

ハヅキは、待っていた質問だった。

「今は、こう言われます。『システム上、あなたは二人です』」

「はい」

「これからは、こう言えます。『あなたの読みは二つで確定しています』」

担当部長の、眉が動いた。

「……言い方が変わるだけでは」

「違います」ハヅキは言った。「責任の所在が変わります

「責任」

「今は、二つあることがその人の落ち度として扱われています。だから、その人が書類を揃えて、証明して、頭を下げるんです」

ハヅキは、拳を握った。

「複数読みが確定した状態なら、それはシステムが認めた事実になります。証明するのは、その人じゃない。システムの側です

部屋が、静まり返った。

甲賀が、机の下で、小さく息を吐いた。

「橘さん」担当部長が、言った。「それは、たしかに、しわ寄せの向きが変わりますね」

「変わります」

「窓口の混乱は」

「増えます。最初の三年は」ハヅキは正直に言った。「でも、今のまま統合したら、間違って統合された人が、あとから訂正しに来ます。訂正のほうが、はるかに面倒です」

システム部長が、言った。

「試算はありますか」

「あります」

ハヅキは、資料の最後のページを開いた。

「甲賀さんが、昨夜、作ってくれました」

甲賀が、初めて口を開いた。

「統合後の訂正申請の発生率を、過去の類似案件から推計しました。三年間で、およそ四千件から六千件」

システム部長が、資料を見た。

「……多いな」

「一件あたりの処理工数を掛けると」甲賀は言った。「複数読み対応の開発コストを、上回ります

部屋が、静まった。

担当部長が、資料を閉じた。

そして、言った。

「橘さん。最後に一つだけ、教えてください」

「はい」

「なぜ、あなたはこの仕事に、そこまで熱心なんですか」

ハヅキは、少し黙った。

そして、言った。

「私は、この仕事を選ぶとき、散らばった人を一人に戻す仕事だと思っていました」

「はい」

「三年やって、違うとわかりました。どちらかを消す仕事でした」

ハヅキは、言った。

「でも、今、やっと、最初に思っていた仕事ができそうなんです」

担当部長は、長いこと、ハヅキを見ていた。

「……そうですか」

そして、頷いた。

「持ち帰ります」

会議室を出ると、廊下で、ベンが立ち上がった。

「どうでしたか!?」

「持ち帰り」

「それって、いいんですか、悪いんですか」

「わかんない」

ハヅキは、壁にもたれた。

そして、ずるずると、床に座り込んだ。

「……疲れた」

甲賀が、缶コーヒーを差し出した。

「よくやったわ」

「甲賀さん」

「なに」

「試算、いつ作ったんですか」

「昨夜」

「私、頼んでませんけど」

「頼まれてない」甲賀は言った。「乗り換えたからよ

ハヅキは、顔を上げた。

「筋が通ってたら乗り換えるって、言ったでしょう」甲賀は言った。 「私、嘘つかないから」 ハヅキは、缶を受け取った。

冷たかった。

「甲賀さん」

「なに」

「十割になりました」

甲賀は、初めて、声を出して笑った。

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