ハヅキは、ホワイトボードに書いた。
か が さ ざ た だ な ― は ば ぱ
「五十音表です。清音と、濁音」
「はい」
「か行は二つ。さ行は二つ。た行は二つ。な行は濁りません」
ハヅキは、は行の三つを、丸で囲んだ。
「は行だけ、三つあります」
システム部長が、身を乗り出した。
「……本当だ」
「三つ目には、名前がついています」
ハヅキは、書いた。
半濁音
「半分、です」
ハヅキは言った。
「濁っているとも、清んでいるとも、決められなかった。だから『半』と名付けられました」
担当部長が、資料から顔を上げた。
「決められなかったから、半」
「はい。そして重要なのは、ここからです」
ハヅキは、ペンを置いた。
「決められなかったものを、日本語は、捨てませんでした」
部屋が、しんとした。
「五十音表の中に、正式に入れました。教科書に載せました。キーボードにキーを作りました。文字コードの規格に入れました」
ハヅキは、言った。
「千年以上、決められないものを、決めないまま運用してきたんです。それが日本語です」
システム部長が、ゆっくりと言った。
「……曖昧なまま、規格化した」
「はい」
「それは、たしかに設計だ」
ハヅキは、頷いた。
「私が提案しているのは、新しいことじゃありません。日本語がもともと持っている構造を、システムに戻すだけです」
担当部長が、指を組んだ。
「橘さん。実務の質問をしてもいいですか」
「どうぞ」
「複数読みで確定した人が、銀行の窓口に行ったら、どうなりますか」
ハヅキは、待っていた質問だった。
「今は、こう言われます。『システム上、あなたは二人です』」
「はい」
「これからは、こう言えます。『あなたの読みは二つで確定しています』」
担当部長の、眉が動いた。
「……言い方が変わるだけでは」
「違います」ハヅキは言った。「責任の所在が変わります」
「責任」
「今は、二つあることがその人の落ち度として扱われています。だから、その人が書類を揃えて、証明して、頭を下げるんです」
ハヅキは、拳を握った。
「複数読みが確定した状態なら、それはシステムが認めた事実になります。証明するのは、その人じゃない。システムの側です」
部屋が、静まり返った。
甲賀が、机の下で、小さく息を吐いた。
「橘さん」担当部長が、言った。「それは、たしかに、しわ寄せの向きが変わりますね」
「変わります」
「窓口の混乱は」
「増えます。最初の三年は」ハヅキは正直に言った。「でも、今のまま統合したら、間違って統合された人が、あとから訂正しに来ます。訂正のほうが、はるかに面倒です」
システム部長が、言った。
「試算はありますか」
「あります」
ハヅキは、資料の最後のページを開いた。
「甲賀さんが、昨夜、作ってくれました」
甲賀が、初めて口を開いた。
「統合後の訂正申請の発生率を、過去の類似案件から推計しました。三年間で、およそ四千件から六千件」
システム部長が、資料を見た。
「……多いな」
「一件あたりの処理工数を掛けると」甲賀は言った。「複数読み対応の開発コストを、上回ります」
部屋が、静まった。
担当部長が、資料を閉じた。
そして、言った。
「橘さん。最後に一つだけ、教えてください」
「はい」
「なぜ、あなたはこの仕事に、そこまで熱心なんですか」
ハヅキは、少し黙った。
そして、言った。
「私は、この仕事を選ぶとき、散らばった人を一人に戻す仕事だと思っていました」
「はい」
「三年やって、違うとわかりました。どちらかを消す仕事でした」
ハヅキは、言った。
「でも、今、やっと、最初に思っていた仕事ができそうなんです」
担当部長は、長いこと、ハヅキを見ていた。
「……そうですか」
そして、頷いた。
「持ち帰ります」
会議室を出ると、廊下で、ベンが立ち上がった。
「どうでしたか!?」
「持ち帰り」
「それって、いいんですか、悪いんですか」
「わかんない」
ハヅキは、壁にもたれた。
そして、ずるずると、床に座り込んだ。
「……疲れた」
甲賀が、缶コーヒーを差し出した。
「よくやったわ」
「甲賀さん」
「なに」
「試算、いつ作ったんですか」
「昨夜」
「私、頼んでませんけど」
「頼まれてない」甲賀は言った。「乗り換えたからよ」
ハヅキは、顔を上げた。
「筋が通ってたら乗り換えるって、言ったでしょう」甲賀は言った。 「私、嘘つかないから」 ハヅキは、缶を受け取った。
冷たかった。
「甲賀さん」
「なに」
「十割になりました」
甲賀は、初めて、声を出して笑った。