「意味がわかりません」
ハヅキは正直に言った。
「なんでオパラなんて読みがあるんですか。日本語にそんな姓、ないでしょう」
「今はな」
「今は?」
御門は活字の棚から、一つ取り出した。
「あんた、『は』は、昔から『は』だったと思ってるか」
「え。違うんですか」
「違う」
御門は活字を机に置いた。
「『は』は、大昔、『ぱ』だった」
ハヅキは口を開けた。
「……嘘でしょ」
「本当だ。ただ、これは俺の専門じゃない。俺は形の職人で、音の話じゃない」御門は携帯を取り出した。「音の専門家を呼ぶ」
「呼ぶって、今から?」
「あいつ、暇だから」
十五分後。
ドアが、蹴破られるみたいに開いた。
「ぱ行の話ですかァーーッ!!」
飛び込んできたのは、二十歳そこそこの男だった。リュックが本で膨らんで、背中が三角形になっていた。
「呼んだ!? 呼びましたよね今! ぱ行って言いましたよね!」
「言った」
「うわァーーッ待ってた! 三年待ってた! 誰もぱ行の話しないんですよ世の中の人!」
ハヅキは後ずさった。
「……誰ですか、この人」
「紅林弁(くればやし べん)。国語学の院生。上代の音韻をやってる」
「ベンです! 弁天の弁! よろしく!」
ベンはリュックを床に落とした。ドスン、と本気の音がした。
「で、何が知りたいんですか! 唇音退化? ハ行転呼? 四つ仮名? どれ! 全部? 全部いけますよ!」
「……とりあえず」ハヅキは言った。「『は』が『ぱ』だった話から」
ベンの目が、光った。
「いいですか」
ベンはホワイトボードに、いきなり書き始めた。字が汚かった。
上代(奈良より前) p 平安 ɸ 江戸のはじめ h
「今から千三百年前、『はな』は『ぱな』でした」
「ぱな」
「ぱなです。『はは』は『ぱぱ』です」
「ぱぱ!?」
「ぱぱですよ。母のことを、ぱぱと呼んでたんです」
ハヅキは椅子から落ちそうになった。
「それが平安時代になると、ちょっと弱まって『ɸ』になる。今の『ふ』の子音です。『はは』は『ふぁふぁ』。そして江戸のはじめ頃に、さらに弱まって『h』になる。やっと今の『はは』です」
「弱まっていってる」
「そう! 唇が、だんだん働かなくなっていくんです。これを唇音退化っていいます」
ベンはホワイトボードに絵を描いた。唇のつもりらしい絵だった。ひどい絵だった。
「証拠、二つあります。聞きます?」
「聞きます」
「一つめ。1516年の、なぞなぞ」
ベンは本を開いた。
「『母には二度あひたれども、父には一度もあはず』。答えは何でしょう」
ハヅキは考えた。
「……母には二度会って、父には一度も会わない」
「そう」
「うーん。家族の話じゃないですよね、これ」
「じゃない」
「……あ」
ハヅキは、自分の口に手を当てた。
「くちびる?」
ベンが、両手を上げた。
「正解ェーーーッ!!」
「うるさい」御門が言った。
「『はは』って言ってみてください。当時の発音で。『ふぁふぁ』」
ハヅキは言った。ふぁふぁ。
唇が、二回合わさった。
「『ちち』は?」
ちち。唇は、一度も合わさらなかった。
「……ほんとだ」
「ね! つまり十六世紀の日本人は、まだ『はは』を唇で言ってたんです。今の『はは』じゃ、唇は一度も合いません。このなぞなぞ、今の発音だと成立しないんですよ」
ハヅキは、五百年前の日本人が、このなぞなぞで笑ったところを想像した。
なんだか、少し嬉しくなった。
「二つめ。1603年の、外国人が作った辞書」
ベンは別の本を出した。
「宣教師が日本語の辞書を作ったんです。ローマ字で。そこでハ行が、どう綴られてると思います」
「ha, hi, fu, he, ho?」
「fa, fi, fu, fe, fo」
ハヅキは、その並びを見た。
「全部、f」
「全部です。彼らの耳には、そう聞こえた。だから『日本』は、Nifon」
「ニフォン」
「ニフォンです。ジャパンの語源、たどるとこの辺に行き着くんですよ」
ベンはペンを置いた。
「で、ここからが本題です」
急に、声のトーンが落ちた。
「濁点って、なんで『は』に点をつけると『ば』になるか、考えたことあります?」
ハヅキは首を振った。
「おかしいんですよ、これ」ベンは言った。「か→が、さ→ざ、た→だ。全部、声を足しただけです。理屈が通ってる。でも――」
ベンはホワイトボードに書いた。
h + 声 = ?
「hに声を足しても、bにはなりません。絶対に。音声学的に、繋がらないんです」
ハヅキは、その式を見つめた。
「じゃあ、なんで」
「p + 声 = b」
ベンが、その下に書いた。
「これなら、完璧に繋がる」
部屋が、しんとした。
「濁点の仕組みが作られたのは、『は』がまだ『ぱ』だった時代なんです」ベンは言った。「その後、音のほうが変わった。でも記号は変わらなかった」
「……変わらなかった」
「僕らは今も、千年以上前の発音を前提にした記号を、毎日打ってます」ベンは言った。「誰も気づかないまま」
ハヅキは、自分のスマートフォンを見た。
キーボードに、点が二つ並んだキーがあった。
毎日、何百回も押しているキーだった。
化石を押していた。
「……ちょっと待って」
ハヅキは顔を上げた。
「じゃあ、小原志乃さんの三行目。オパラ」
御門とベンが、同時にハヅキを見た。
「あれ、間違いじゃない?」
ベンが、ゆっくり頷いた。
「明治五年の記録なんですよね」
「うん」
「壬申戸籍って、地方の役人が、村を回って、聞き取りで作ったんですよ」
ハヅキの背筋が、伸びた。
「聞き取り」
「書類を見て写したんじゃない。人の口から出た音を、その場で仮名にした」ベンは言った。「明治五年に、山奥の村で、まだ古い発音が残ってたとしたら」
「……おぱら、って聞こえた」
「その可能性は、ゼロじゃない」
御門が、初めて口を開いた。
「だから俺たちは、消せなかった」
ハヅキは、御門を見た。
「消せなかった?」
「オパラを間違いとして消すのは簡単だ。データとしては、明らかに異常値だからな」御門は言った。「でも、もしそれが本物なら――」
御門は言葉を切った。
「日本語が『ぱ』だった時代の、生きた証言が一件、この国のデータベースに残ってることになる」
ハヅキは、両手で顔を覆った。
「……えらいものに触っちゃった」
「まだ触ってないぞ」御門は言った。「触るのはこれからだ」
そのとき、ハヅキの携帯が鳴った。
甲賀からだった。
「橘さん。戻ってこられる?」
「どうしました」
「島が」
甲賀の声が、いつもと違った。
「島が、減ってる」