← 濁点島 目次

第五章

九十九の箱

始発で、二時間かかった。

駅を降りると、田んぼしかなかった。

ハヅキ、御門、ベンの三人が並んで歩いた。ベンは寝不足でふらついていた。

「なんで僕まで」

「音の担当でしょ」

「僕、まだ院生なんですけど」

「私、派遣だけど」

「俺、無職だ」御門が言った。

「無職!?」

「三ヶ月前からな」

三人は、砂利道を歩いた。

やがて、平屋の家が見えた。庭に、洗濯物が干してあった。

「……普通の家ですね」

インターホンを押すと、しばらくして、ドアが開いた。

出てきたのは、小柄な老人だった。

七十代の後半に見えた。眼鏡の奥の目が、鋭かった。

「三人来たか」

「九十九さん、ですか」

「九十九だ。下の名前はない」

「ないんですか」

「捨てた」

老人は背を向けて、家の中に入っていった。ついてこい、ということらしかった。

居間には、段ボール箱が積んであった。

三十箱はあった。

「座れ」

三人は座った。

九十九は、湯呑みを四つ並べた。手が震えていた。

「私は昔、役所のシステムを作っていた」九十九は言った。「戸籍のデジタル化だ。第一次から第三次まで、全部いた」

「じゃあ、島も」

「私が作った」

九十九は、湯呑みに茶を注いだ。こぼれた。

「一九九〇年代の初めだ。紙の戸籍を、電子化することになった。何億という記録を、機械に移す」

「大変そうですね」

「大変だったのは、そこじゃない」九十九は言った。「紙には、読みがなかった

ハヅキは顔を上げた。

「戸籍には、漢字しか書いてない。読みは、口の中にしかない」九十九は言った。「だが機械は、読みがないと索引が作れん。だから、我々が読みを付けた」

「……付けた?」

「推測した」

部屋の空気が、少し変わった。

「小原と書いてあれば、おはら、と打った。中島と書いてあれば、なかじま、と打った」九十九は言った。「本人に確認などしていない。何億件だぞ。できるわけがない」

ベンが、小さく言った。

「じゃあ、今のデータの読みって」

「三十年前に、私や、私みたいな連中が、えいやで打ったものが土台になっている」

三人は、黙った。

「気づいたのは、五年目だった」九十九は言った。「私が『なかしま』と打った家から、苦情が来た。うちは『なかじま』だと」

「直しました?」

「直した。だが、そのとき思ったんだ」

九十九は、湯呑みを両手で包んだ。

苦情を言えた人だけが、直っている

ハヅキの喉が、鳴った。

「苦情を言わなかった人は、私が打った読みのまま、今も生きている。子どもも、孫も。私が三十年前に打った読みが、その家の正式な読みになっている」

九十九は、震える手で茶を飲んだ。

「私は、何万世帯の名前を、勝手に決めた」

「……」

「だから作った」九十九は言った。「怪しいものを、消さずに置いておく場所を。判定できないものを、判定しないまま残す場所を」

「それが、島」

「そうだ。予算申請の書類には『暫定保留領域』と書いた。誰も中身を見なかった。予算がついた」

御門が、少し笑った。

「役所を、だましましたね」

「だました」九十九はあっさり言った。「三十年、だまし続けた」

九十九は、段ボール箱の一つを指した。

「開けてみなさい」

ハヅキが開けた。

中には、紙が詰まっていた。

手書きの、コピーの、古い紙。

一枚を取り出した。

明治の記録の写しだった。読めない崩し字が並んでいた。その端に、鉛筆で丸が付けてあった。

丸の中に、その一文字が書いてあった。

「これは」

「三十年かけて、集めた」九十九は言った。「明治の記録の中に残る、パ行の痕跡だ」

ハヅキは、箱の中を見た。何百枚もあった。

そして、部屋の中の箱の数を、数えた。

三十箱。

「……全部?」

「全部だ」

九十九は、目を細めた。

「小原志乃だけじゃない。この国には、で記録された人が、まだ何百人も眠っている」

ハヅキは、紙を持つ手が震えているのに気づいた。

「なんで、公表しないんですか。学会とか」

「したよ」

九十九は、あっさり言った。

「四十歳のときに、論文を書いた。誰にも相手にされなかった。単なる誤記だと言われた」

「証拠が、こんなにあるのに」

「証拠は、読み方を知っている人にしか、証拠に見えん」九十九は言った。「あなたたち三人には、これが見える。だが世の中の九割九分には、これはただの書き損じだ」

九十九は、湯呑みを置いた。

「私はもうすぐ死ぬ。膵臓だ。三ヶ月と言われた」

三人は、動けなかった。

「島が消えれば、この箱も意味を失う。裏付けるデータが、なくなるからな」

九十九は、ハヅキを見た。

「あんた、島の中にいるんだろう」

「……はい」

「名前は」

「橘葉月です。はづき、と、はずき」

九十九の目が、少しだけ和らいだ。

「四つ仮名か。それも古い揺れだ」

「四つ仮名?」

ベンが、身を乗り出した。

「じ、ぢ、ず、づ。この四つ、昔は全部、別の音だったんです」

「別!?」

「別です。今は『じ』と『ぢ』、『ず』と『づ』は同じ音ですけど、江戸のはじめ頃までは、はっきり違って聞こえた」

ベンは指を四本立てた。

「四つあったものが、二つになった。だから今、混乱するんです。もともと区別があったものを、区別がなくなった後の目で見てるから

ハヅキは、自分の名前を思った。

はづき。はずき。

四百年前なら、この二つは、はっきり違う音だった。

「じゃあ私」ハヅキは言った。「四百年前なら、揺れてなかった?」

「揺れてません。一つに決まってました」ベンは言った。「揺れたのは、日本語のほうです。あなたじゃない」

ハヅキは、しばらく黙った。

揺れたのは、私じゃない。

それは、二十四年間、誰も言ってくれなかった言葉だった。

窓口の人も、学校の先生も、親でさえも、言ってくれなかった。

「橘さん」

九十九が言った。

「あんた、島を守るつもりか」

ハヅキは、顔を上げた。

「わかりません」

「わからんか」

「でも」ハヅキは言った。「消す前に、全部読みたい

九十九が、初めて笑った。

歯が、ほとんどなかった。

「一万九千件をか」

「はい」

「あと二十九日で消えるぞ」

「じゃあ、寝ません」

御門が、ため息をついた。

「無茶苦茶だな」

「無茶苦茶じゃないと、間に合わないんで」

ハヅキは立ち上がった。

「九十九さん。箱、貸してください」

「持っていけ。全部だ」

「三十箱ですよ」

「電車で運べ」

「電車!?」

ベンが叫んだ。

「僕、腰が! 腰が弱いんですけど!」

「甘えるな」御門が言った。「文字は重いんだ」

帰りの電車で、三人は箱に埋もれて座っていた。

ハヅキは、揺れる車内で、一枚の紙を読んでいた。

明治五年の、聞き取りの記録。

震える鉛筆の丸。

そのとき、ハヅキの携帯が震えた。

甲賀からのメッセージだった。

「島の統合が加速してる。今日だけで二千件」

「誰かが、エンジンの設定を変えた」

「私じゃない」

ハヅキは、窓の外を見た。

田んぼが、流れていった。

↑ 目次に戻る