始発で、二時間かかった。
駅を降りると、田んぼしかなかった。
ハヅキ、御門、ベンの三人が並んで歩いた。ベンは寝不足でふらついていた。
「なんで僕まで」
「音の担当でしょ」
「僕、まだ院生なんですけど」
「私、派遣だけど」
「俺、無職だ」御門が言った。
「無職!?」
「三ヶ月前からな」
三人は、砂利道を歩いた。
やがて、平屋の家が見えた。庭に、洗濯物が干してあった。
「……普通の家ですね」
インターホンを押すと、しばらくして、ドアが開いた。
出てきたのは、小柄な老人だった。
七十代の後半に見えた。眼鏡の奥の目が、鋭かった。
「三人来たか」
「九十九さん、ですか」
「九十九だ。下の名前はない」
「ないんですか」
「捨てた」
老人は背を向けて、家の中に入っていった。ついてこい、ということらしかった。
居間には、段ボール箱が積んであった。
三十箱はあった。
「座れ」
三人は座った。
九十九は、湯呑みを四つ並べた。手が震えていた。
「私は昔、役所のシステムを作っていた」九十九は言った。「戸籍のデジタル化だ。第一次から第三次まで、全部いた」
「じゃあ、島も」
「私が作った」
九十九は、湯呑みに茶を注いだ。こぼれた。
「一九九〇年代の初めだ。紙の戸籍を、電子化することになった。何億という記録を、機械に移す」
「大変そうですね」
「大変だったのは、そこじゃない」九十九は言った。「紙には、読みがなかった」
ハヅキは顔を上げた。
「戸籍には、漢字しか書いてない。読みは、口の中にしかない」九十九は言った。「だが機械は、読みがないと索引が作れん。だから、我々が読みを付けた」
「……付けた?」
「推測した」
部屋の空気が、少し変わった。
「小原と書いてあれば、おはら、と打った。中島と書いてあれば、なかじま、と打った」九十九は言った。「本人に確認などしていない。何億件だぞ。できるわけがない」
ベンが、小さく言った。
「じゃあ、今のデータの読みって」
「三十年前に、私や、私みたいな連中が、えいやで打ったものが土台になっている」
三人は、黙った。
「気づいたのは、五年目だった」九十九は言った。「私が『なかしま』と打った家から、苦情が来た。うちは『なかじま』だと」
「直しました?」
「直した。だが、そのとき思ったんだ」
九十九は、湯呑みを両手で包んだ。
「苦情を言えた人だけが、直っている」
ハヅキの喉が、鳴った。
「苦情を言わなかった人は、私が打った読みのまま、今も生きている。子どもも、孫も。私が三十年前に打った読みが、その家の正式な読みになっている」
九十九は、震える手で茶を飲んだ。
「私は、何万世帯の名前を、勝手に決めた」
「……」
「だから作った」九十九は言った。「怪しいものを、消さずに置いておく場所を。判定できないものを、判定しないまま残す場所を」
「それが、島」
「そうだ。予算申請の書類には『暫定保留領域』と書いた。誰も中身を見なかった。予算がついた」
御門が、少し笑った。
「役所を、だましましたね」
「だました」九十九はあっさり言った。「三十年、だまし続けた」
九十九は、段ボール箱の一つを指した。
「開けてみなさい」
ハヅキが開けた。
中には、紙が詰まっていた。
手書きの、コピーの、古い紙。
一枚を取り出した。
明治の記録の写しだった。読めない崩し字が並んでいた。その端に、鉛筆で丸が付けてあった。
「ぱ」
丸の中に、その一文字が書いてあった。
「これは」
「三十年かけて、集めた」九十九は言った。「明治の記録の中に残る、パ行の痕跡だ」
ハヅキは、箱の中を見た。何百枚もあった。
そして、部屋の中の箱の数を、数えた。
三十箱。
「……全部?」
「全部だ」
九十九は、目を細めた。
「小原志乃だけじゃない。この国には、ぱで記録された人が、まだ何百人も眠っている」
ハヅキは、紙を持つ手が震えているのに気づいた。
「なんで、公表しないんですか。学会とか」
「したよ」
九十九は、あっさり言った。
「四十歳のときに、論文を書いた。誰にも相手にされなかった。単なる誤記だと言われた」
「証拠が、こんなにあるのに」
「証拠は、読み方を知っている人にしか、証拠に見えん」九十九は言った。「あなたたち三人には、これが見える。だが世の中の九割九分には、これはただの書き損じだ」
九十九は、湯呑みを置いた。
「私はもうすぐ死ぬ。膵臓だ。三ヶ月と言われた」
三人は、動けなかった。
「島が消えれば、この箱も意味を失う。裏付けるデータが、なくなるからな」
九十九は、ハヅキを見た。
「あんた、島の中にいるんだろう」
「……はい」
「名前は」
「橘葉月です。はづき、と、はずき」
九十九の目が、少しだけ和らいだ。
「四つ仮名か。それも古い揺れだ」
「四つ仮名?」
ベンが、身を乗り出した。
「じ、ぢ、ず、づ。この四つ、昔は全部、別の音だったんです」
「別!?」
「別です。今は『じ』と『ぢ』、『ず』と『づ』は同じ音ですけど、江戸のはじめ頃までは、はっきり違って聞こえた」
ベンは指を四本立てた。
「四つあったものが、二つになった。だから今、混乱するんです。もともと区別があったものを、区別がなくなった後の目で見てるから」
ハヅキは、自分の名前を思った。
はづき。はずき。
四百年前なら、この二つは、はっきり違う音だった。
「じゃあ私」ハヅキは言った。「四百年前なら、揺れてなかった?」
「揺れてません。一つに決まってました」ベンは言った。「揺れたのは、日本語のほうです。あなたじゃない」
ハヅキは、しばらく黙った。
揺れたのは、私じゃない。
それは、二十四年間、誰も言ってくれなかった言葉だった。
窓口の人も、学校の先生も、親でさえも、言ってくれなかった。
「橘さん」
九十九が言った。
「あんた、島を守るつもりか」
ハヅキは、顔を上げた。
「わかりません」
「わからんか」
「でも」ハヅキは言った。「消す前に、全部読みたい」
九十九が、初めて笑った。
歯が、ほとんどなかった。
「一万九千件をか」
「はい」
「あと二十九日で消えるぞ」
「じゃあ、寝ません」
御門が、ため息をついた。
「無茶苦茶だな」
「無茶苦茶じゃないと、間に合わないんで」
ハヅキは立ち上がった。
「九十九さん。箱、貸してください」
「持っていけ。全部だ」
「三十箱ですよ」
「電車で運べ」
「電車!?」
ベンが叫んだ。
「僕、腰が! 腰が弱いんですけど!」
「甘えるな」御門が言った。「文字は重いんだ」
帰りの電車で、三人は箱に埋もれて座っていた。
ハヅキは、揺れる車内で、一枚の紙を読んでいた。
明治五年の、聞き取りの記録。
震える鉛筆の丸。
ぱ
そのとき、ハヅキの携帯が震えた。
甲賀からのメッセージだった。
「島の統合が加速してる。今日だけで二千件」
「誰かが、エンジンの設定を変えた」
「私じゃない」
ハヅキは、窓の外を見た。
田んぼが、流れていった。