会社に着いたのは、夕方だった。
箱を三十個、台車で運び込むハヅキを見て、フロアの全員が顔を上げた。
「橘さん、引っ越し?」
「証拠です」
「証拠!?」
甲賀の席に直行した。
「甲賀さん。エンジンの設定、誰が変えられるんですか」
「権限を持ってるのは三人。私と、システム部長と、発注元の担当者」
「そのうち、変えてないのは」
「私だけ」甲賀は言った。「あとの二人も、変えてないと言ってる」
「じゃあ、誰かが嘘ついてる」
「あるいは」甲賀は端末を見た。「誰も変えていない」
ハヅキは眉を寄せた。
「変わってるのに?」
「エンジンは学習する」甲賀は言った。「人間が判断したパターンを学んで、精度を上げていく。誰も設定を変えなくても、自分で速くなる」
「……自分で」
「あなたが島を熱心に見始めた日から、加速してる」甲賀は言った。「エンジンは、あなたの操作も学習してる」
ハヅキは、口を開けた。
「私が見たせいで、速くなってる!?」
「可能性の一つ」
「そんなのアリですか!」
「アリよ」甲賀は言った。「観測が結果を変えるなんて、この業界じゃ日常茶飯事」
ハヅキは頭を抱えた。
「じゃあ、私、何もできないじゃないですか」
「そうね」甲賀は言った。「普通に見てたらね」
ハヅキは顔を上げた。
甲賀は、初めて、少しだけ笑っていた。
「橘さん。あなた、私が敵だと思ってる?」
「……六割くらい」
「四割は仲間なんだ」
「四割は、正しいこと言ってるから」
甲賀は、椅子を回した。
「私は統合派よ。それは変わらない。でも――筋の通った案が出たら、そっちに乗り換える」
甲賀は端末を叩いて、ハヅキに画面を向けた。
「二十八日ある。私が反論できない報告書を出しなさい。そうしたら、統合は私が止める」
ハヅキは、その画面を見た。
「本気ですか」
「私、冗談言ったことある?」
「ないです」
「じゃあ本気」
ハヅキは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてないわ」甲賀は言った。「それと一つ、ヒントをあげる」
甲賀はキーを叩いた。
小原志乃の三行が出た。
「この三件、私も調べたの。妙なことに気づいた」
「なんですか」
「文字数が違う」
「三件とも、表示は三文字でしょう。オハラ、オバラ、オパラ」 「でも、機械が数えると違うの」
[A] オハラ … 3文字 [B] オバラ … 4文字 [C] オパラ … 4文字
「オバラって、オ・バ・ラの三文字じゃないんですか」 「人が数えれば三文字。機械が数えると四文字」
[A] オ + ハ + ラ [B] オ + ハ + ゛ + ラ [C] オ + ハ + ゜ + ラ
「……点が、独立してる」 「そう。文字として、別に入ってるの。濁点も、半濁点も」 「そう。文字として、別に入ってるの」
甲賀は言った。
「機械の中に、書き方が二つあるのよ。『パ』を一文字として持つ方式と、『ハ』と『゜』を組み合わせる方式」甲賀は言った。「どっちも正式な規格。どっちが正しいとも、決まってない」
「二つあるんですか、規格が」
「あるの。そして機械は、この二つを別のものとして扱う」
ハヅキは、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、同じ名前でも、書き方が違うだけで、別人扱いされる?」
「される」
「そんなの、日常的に起きてるんですか」
「起きてる」甲賀は言った。「あるOSは分解して保存する。別のOSは合体して保存する。同じファイル名が、機械をまたぐと通らなくなる。世界中の技術者が、二十年これで泣いてる」
ハヅキは、ゆっくりと座った。 そして、三行を、もう一度見た。
オ + ハ + + ラ オ + ハ + ゛ + ラ オ + ハ + ゜ + ラ
「……三行とも、同じですね」 「同じ?」 「オとハとラ。全部一緒です。違うのは、三つ目だけ」
ハヅキは、その一列を、指でなぞった。
「何も乗ってないか、点が乗ってるか、丸が乗ってるか」
甲賀が、画面を見た。 「……本当ね」
「この人、三人いるんじゃないんですよ」ハヅキは言った。「一人の右上に、三つの可能性が乗ってるだけです」
ハヅキの頭の中で、何かが繋がりかけた。
まだ言葉にならなかった。でも、確かに何かが動いた。
「甲賀さん。この四文字の書き方、いつのデータに多いですか」
甲賀は集計をかけた。
数秒で、結果が出た。
「……電子化された年代で、きれいに分かれてるね」
甲賀は、グラフをハヅキに向けた。
「新しい入力ほど、一文字型。古い入力ほど、分解型」
「明治の記録は」
「明治の記録は紙よ」甲賀は言った。「電子化されたのは、七〇年代から九〇年代」
「その頃のは」
「ほぼ全部、分解型」
ハヅキは、眉を寄せた。
「なんで、昔の人はわざわざ分けて入力したんですか」
「分けたんじゃない」甲賀は言った。「分けるしかなかったの」
甲賀は、紙にペンで書いた。
ハ ゚
「昔の日本語の文字コードは、カタカナしかなかった。細いやつ。今も伝票とか銀行の明細で見るでしょう」
「見ます」
「あの規格には、濁点や半濁点のついた一文字が、そもそも存在しないの」
ハヅキは、口を開けた。
「存在しない?」
「『パ』という一文字がない。だから『ハ』と『゜』を並べるしかない」甲賀は言った。「六〇年代の規格よ。カナに使える枠が、六十三個しかなかったの」
「六十三」
「清音と記号で、それで終わり。濁点つきの二十五字を入れる場所が、なかった」
ハヅキは、少し考えた。
「でも今、容量あるじゃないですか」
「あるわよ」甲賀は言った。「八〇年代には、もう足りてた」
「じゃあ、なんで残ってるんですか」
「直すと、昔のデータが読めなくなるから」
甲賀は、ペンを置いた。
「足りなかったのは、最初の十年か二十年だけ」甲賀は言った。「理由は、とっくに消えてるの。形だけ残ってる」
ハヅキは、その二文字を見つめた。
「じゃあ、古い記録の丸が外に出てるのは」
「日本語の都合じゃない。機械の都合」
ハヅキは、しばらく黙った。
「……容量が足りないから、丸を外に出した」
「そう」
「その丸が、今、消される理由になってるんですか」
甲賀は、答えなかった。
ハヅキは、両手を机について、立ち上がった。
「甲賀さん」
「なに」
「自動統合エンジン、分解型を読めてますか」
甲賀の表情が、初めて崩れた。
キーを叩く音が、フロアに響いた。
そして、止まった。
「……読めてない」
甲賀は、画面を見たまま言った。
「分解型のレコードを、エンジンは『表記ゆれ』として扱ってる。中身を見ないで、見た目だけで統合してる」
「つまり」
「古い記録ほど、雑に消されてる」
甲賀は、椅子の背に、体を預けた。
「……やられた」
ハヅキは、その横顔を見た。
初めて、この人が「間違えた」ところを見た。
「甲賀さん」
「なに」
「四割から、七割になりました」
甲賀は、笑わなかった。
代わりに、端末に手を伸ばした。
「橘さん。エンジンを止めるわ。私の権限で」
「できるんですか」
「一時停止なら」甲賀はキーを押した。「三日だけ」
「三日!?」
「それ以上止めたら、私が飛ぶ」甲賀は言った。「三日で、根拠を揃えなさい」
ハヅキは、フロアを見回した。
段ボール三十箱。
御門とベンが、床に座り込んで、紙を広げていた。
「聞いた!? 三日だって!」
「聞こえてる」御門は言った。「寝ないぞ」
「僕、腰が」
「甘えるな」
ハヅキは、拳を握った。
「よし。牛丼買ってくる」
「何杯」
「九杯」
「多い」