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第六章

合成された名前

会社に着いたのは、夕方だった。

箱を三十個、台車で運び込むハヅキを見て、フロアの全員が顔を上げた。

「橘さん、引っ越し?」

「証拠です」

「証拠!?」

甲賀の席に直行した。

「甲賀さん。エンジンの設定、誰が変えられるんですか」

「権限を持ってるのは三人。私と、システム部長と、発注元の担当者」

「そのうち、変えてないのは」

「私だけ」甲賀は言った。「あとの二人も、変えてないと言ってる」

「じゃあ、誰かが嘘ついてる」

「あるいは」甲賀は端末を見た。「誰も変えていない」

ハヅキは眉を寄せた。

「変わってるのに?」

「エンジンは学習する」甲賀は言った。「人間が判断したパターンを学んで、精度を上げていく。誰も設定を変えなくても、自分で速くなる

「……自分で」

「あなたが島を熱心に見始めた日から、加速してる」甲賀は言った。「エンジンは、あなたの操作も学習してる」

ハヅキは、口を開けた。

「私が見たせいで、速くなってる!?」

「可能性の一つ」

「そんなのアリですか!」

「アリよ」甲賀は言った。「観測が結果を変えるなんて、この業界じゃ日常茶飯事」

ハヅキは頭を抱えた。

「じゃあ、私、何もできないじゃないですか」

「そうね」甲賀は言った。「普通に見てたらね」

ハヅキは顔を上げた。

甲賀は、初めて、少しだけ笑っていた。

「橘さん。あなた、私が敵だと思ってる?」

「……六割くらい」

「四割は仲間なんだ」

「四割は、正しいこと言ってるから」

甲賀は、椅子を回した。

「私は統合派よ。それは変わらない。でも――筋の通った案が出たら、そっちに乗り換える

甲賀は端末を叩いて、ハヅキに画面を向けた。

「二十八日ある。私が反論できない報告書を出しなさい。そうしたら、統合は私が止める

ハヅキは、その画面を見た。

「本気ですか」

「私、冗談言ったことある?」

「ないです」

「じゃあ本気」

ハヅキは、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「まだ何もしてないわ」甲賀は言った。「それと一つ、ヒントをあげる」

甲賀はキーを叩いた。

小原志乃の三行が出た。

「この三件、私も調べたの。妙なことに気づいた」

「なんですか」

文字数が違う

「三件とも、表示は三文字でしょう。オハラ、オバラ、オパラ」 「でも、機械が数えると違うの

[A] オハラ … 3文字 [B] オバラ … 4文字 [C] オパラ … 4文字

「オバラって、オ・バ・ラの三文字じゃないんですか」 「人が数えれば三文字。機械が数えると四文字

[A] オ + ハ + ラ [B] オ + ハ + ゛ + ラ [C] オ + ハ + ゜ + ラ

「……点が、独立してる」 「そう。文字として、別に入ってるの。濁点も、半濁点も」 「そう。文字として、別に入ってるの」

甲賀は言った。

機械の中に、書き方が二つあるのよ。『パ』を一文字として持つ方式と、『ハ』と『゜』を組み合わせる方式」甲賀は言った。「どっちも正式な規格。どっちが正しいとも、決まってない

「二つあるんですか、規格が」

「あるの。そして機械は、この二つを別のものとして扱う

ハヅキは、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、同じ名前でも、書き方が違うだけで、別人扱いされる?」

「される」

「そんなの、日常的に起きてるんですか」

「起きてる」甲賀は言った。「あるOSは分解して保存する。別のOSは合体して保存する。同じファイル名が、機械をまたぐと通らなくなる。世界中の技術者が、二十年これで泣いてる」

ハヅキは、ゆっくりと座った。 そして、三行を、もう一度見た。

オ + ハ +   + ラ オ + ハ + ゛ + ラ オ + ハ + ゜ + ラ

「……三行とも、同じですね」 「同じ?」 「オとハとラ。全部一緒です。違うのは、三つ目だけ

ハヅキは、その一列を、指でなぞった。

「何も乗ってないか、点が乗ってるか、丸が乗ってるか」

甲賀が、画面を見た。 「……本当ね」

「この人、三人いるんじゃないんですよ」ハヅキは言った。「一人の右上に、三つの可能性が乗ってるだけです」

ハヅキの頭の中で、何かが繋がりかけた。

まだ言葉にならなかった。でも、確かに何かが動いた。

「甲賀さん。この四文字の書き方、いつのデータに多いですか」

甲賀は集計をかけた。

数秒で、結果が出た。

「……電子化された年代で、きれいに分かれてるね」

甲賀は、グラフをハヅキに向けた。

「新しい入力ほど、一文字型。古い入力ほど、分解型」

「明治の記録は」

「明治の記録は紙よ」甲賀は言った。「電子化されたのは、七〇年代から九〇年代」

「その頃のは」

「ほぼ全部、分解型」

ハヅキは、眉を寄せた。

「なんで、昔の人はわざわざ分けて入力したんですか」

「分けたんじゃない」甲賀は言った。「分けるしかなかったの

甲賀は、紙にペンで書いた。

ハ ゚

「昔の日本語の文字コードは、カタカナしかなかった。細いやつ。今も伝票とか銀行の明細で見るでしょう」

「見ます」

「あの規格には、濁点や半濁点のついた一文字が、そもそも存在しないの」

ハヅキは、口を開けた。

「存在しない?」

「『パ』という一文字がない。だから『ハ』と『゜』を並べるしかない」甲賀は言った。「六〇年代の規格よ。カナに使える枠が、六十三個しかなかったの」

「六十三」

「清音と記号で、それで終わり。濁点つきの二十五字を入れる場所が、なかった」

ハヅキは、少し考えた。

「でも今、容量あるじゃないですか」

「あるわよ」甲賀は言った。「八〇年代には、もう足りてた」

「じゃあ、なんで残ってるんですか」

直すと、昔のデータが読めなくなるから

甲賀は、ペンを置いた。

「足りなかったのは、最初の十年か二十年だけ」甲賀は言った。「理由は、とっくに消えてるの。形だけ残ってる

ハヅキは、その二文字を見つめた。

「じゃあ、古い記録の丸が外に出てるのは」

「日本語の都合じゃない。機械の都合

ハヅキは、しばらく黙った。

「……容量が足りないから、丸を外に出した」

「そう」

「その丸が、今、消される理由になってるんですか」

甲賀は、答えなかった。

ハヅキは、両手を机について、立ち上がった。

「甲賀さん」

「なに」

自動統合エンジン、分解型を読めてますか

甲賀の表情が、初めて崩れた。

キーを叩く音が、フロアに響いた。

そして、止まった。

「……読めてない」

甲賀は、画面を見たまま言った。

「分解型のレコードを、エンジンは『表記ゆれ』として扱ってる。中身を見ないで、見た目だけで統合してる」

「つまり」

古い記録ほど、雑に消されてる

甲賀は、椅子の背に、体を預けた。

「……やられた」

ハヅキは、その横顔を見た。

初めて、この人が「間違えた」ところを見た。

「甲賀さん」

「なに」

「四割から、七割になりました」

甲賀は、笑わなかった。

代わりに、端末に手を伸ばした。

「橘さん。エンジンを止めるわ。私の権限で」

「できるんですか」

「一時停止なら」甲賀はキーを押した。「三日だけ」

「三日!?」

「それ以上止めたら、私が飛ぶ」甲賀は言った。「三日で、根拠を揃えなさい」

ハヅキは、フロアを見回した。

段ボール三十箱。

御門とベンが、床に座り込んで、紙を広げていた。

「聞いた!? 三日だって!」

「聞こえてる」御門は言った。「寝ないぞ」

「僕、腰が」

「甘えるな」

ハヅキは、拳を握った。

「よし。牛丼買ってくる」

「何杯」

「九杯」

「多い」

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