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第八章

一万二千人のうちの、九人

三日目。

ハヅキは、朝の六時に会社に来た。

ベンが、床で寝ていた。腹の上に、印刷したリストが載っていた。

「ベン」

「……はい」

「作ってくれた?」

「四十七人。都内で、電話番号が取れる人」

ハヅキはリストを取り上げた。

「ありがと。寝てて」

「橘さん」

ベンが、顔を上げた。

寝ぐせがひどかった。目が赤かった。

「一つ、聞いていいですか」

「なに」

「なんで、そこまでやるんですか」

ハヅキは、少し考えた。

「別に、日本語を守りたいとかじゃないんだよね」

「じゃあ何ですか」

私が二人だったとき、誰も来てくれなかったから

ベンは、何も言わなかった。

「窓口で、システム上は二人ですって言われて。それで、私は一人ですって言って。それで終わり。誰も、こっち側に来なかった」

ハヅキはコートを着た。

「だから、行く」

ドアが閉まった。

ベンは、しばらくそのドアを見ていた。

それから、机の下から、もう一枚の紙を出した。

夜中に作った、追加のリストだった。都内以外の、七十二人ぶん。

「……僕も、行くか」

一人目。板橋区。八十四歳。

「うちはねえ、じいさんの代までは『はしもと』だったんですよ。でも役所の紙に『ばしもと』って書いてあって」

「どちらが正しいんですか」

「わかんない」老人は笑った。「どっちでもいいと思ってるんだけど、孫が就職するときにね、書類が通らなくて。三ヶ月かかったのよ」

「三ヶ月」

「孫は結局、入社が遅れてね。それだけ」

老人は、お茶をすすった。

「でも、名前が二つあるのは、悪いことばっかりじゃなかったよ」

「そうなんですか」

「戦争のときね。名簿が二つあったおかげで、うちの兄は召集を一回、逃れてる」

ハヅキは、湯呑みを持つ手を止めた。

「……本当ですか」

「本当。役所の人が、わざと直さなかったんだと思う」老人は言った。「あれは、間違いじゃなくて、誰かが残してくれたんだと思ってる」

三人目。江戸川区。三十一歳。

「うち、双子なんですよ」

「双子」

「はい。私と、妹。同じ日に、同じ役所に出したのに」

彼女は、二枚の書類を並べた。

「私が『かみや』で、妹が『かみたに』になってるんです」

「……同じ日に?」

「同じ窓口です。書いた人が、途中で変えたんだと思う」

ハヅキは、その二枚を見つめた。

「妹さん、なんて言ってます」

「面白がってます」彼女は笑った。「別々の名字だから、ホテル予約でバレないって」

「不謹慎ですね」

「ですよね」

二人で笑った。

「でも」彼女は言った。「たまに寂しいですよ。私と妹の名前、機械の中では、他人なんです」

六人目。中野区。四十五歳。

この人は、怒っていた。

「あんたたちが決めたんだろう」

「はい」

「じゃあ責任取れよ」

「取ります」

「取れるのか」

「わかりません」ハヅキは言った。「でも、聞きに来ました」

男は、しばらく黙った。

「……聞きに来たやつは、あんたが初めてだ」

「そうですか」

「三十年、誰も来なかった」

男は、煙草に火をつけた。

「うちは『やまざき』だ。ずっとそうだ。だけど戸籍が『やまさき』でな。会社の名札は『やまさき』だ。二十年、間違った名前で呼ばれてる」

「訂正しなかったんですか」

「したよ。何回も」男は煙を吐いた。「そのたびに、書類が要る。金が要る。時間が要る。それで、疲れた」

男は、灰皿に灰を落とした。

「疲れて、諦めたやつのことも、あんた、数えてるか」

ハヅキは、頷いた。

「一万二千八百四十一人、数えました」

男の手が、止まった。

「そんなにいるのか」

「います」

男は、長いこと煙草を見ていた。

「……そうか」

そして、小さく言った。

「じゃあ、俺、一人じゃなかったのか」

九人目。夜の十一時。品川区。

最後の一人は、二十歳の学生だった。

アパートの部屋は狭くて、本が積んであった。

「あの、僕、外国籍なんですけど」

「はい」

「母がフィリピン人で、父が日本人で。名字が二つあるんです」

「日本の名字と」

「はい。それで、日本の名字のほうも、読みが二つあって」

彼は、笑った。

「だから僕、名前が四つあるんですよ」

「四つ」

「四つです。どれが本当かって、たまに考えるんですけど」

彼は、天井を見た。

「全部本当なんじゃないかって、最近思ってて」

ハヅキは、その言葉を、メモした。

丁寧に、書いた。

「変ですかね」

「変じゃないです」

「そうですか」

「全然、変じゃないです」

帰り際、彼はドアのところで言った。

「あの」

「はい」

「僕の名前、消えるんですか」

ハヅキは、振り返った。

「消させません」

言ってしまってから、思った。

約束しちゃった。

でも、後悔はしなかった。

深夜二時。

会社に戻ると、フロアの電気がついていた。

御門が、机に向かっていた。

床に、ベンが転がって寝ていた。

「……ベン、行ったんですか」

「七十二人ぶん、電話をかけたらしい」御門は言った。「二十二人と話して、力尽きた」

ハヅキは、ベンに自分のコートをかけた。

「御門さん。資料は」

「できてる」

御門は、端末を回した。

そして、ハヅキは、息を止めた。

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