三日目。
ハヅキは、朝の六時に会社に来た。
ベンが、床で寝ていた。腹の上に、印刷したリストが載っていた。
「ベン」
「……はい」
「作ってくれた?」
「四十七人。都内で、電話番号が取れる人」
ハヅキはリストを取り上げた。
「ありがと。寝てて」
「橘さん」
ベンが、顔を上げた。
寝ぐせがひどかった。目が赤かった。
「一つ、聞いていいですか」
「なに」
「なんで、そこまでやるんですか」
ハヅキは、少し考えた。
「別に、日本語を守りたいとかじゃないんだよね」
「じゃあ何ですか」
「私が二人だったとき、誰も来てくれなかったから」
ベンは、何も言わなかった。
「窓口で、システム上は二人ですって言われて。それで、私は一人ですって言って。それで終わり。誰も、こっち側に来なかった」
ハヅキはコートを着た。
「だから、行く」
ドアが閉まった。
ベンは、しばらくそのドアを見ていた。
それから、机の下から、もう一枚の紙を出した。
夜中に作った、追加のリストだった。都内以外の、七十二人ぶん。
「……僕も、行くか」
一人目。板橋区。八十四歳。
「うちはねえ、じいさんの代までは『はしもと』だったんですよ。でも役所の紙に『ばしもと』って書いてあって」
「どちらが正しいんですか」
「わかんない」老人は笑った。「どっちでもいいと思ってるんだけど、孫が就職するときにね、書類が通らなくて。三ヶ月かかったのよ」
「三ヶ月」
「孫は結局、入社が遅れてね。それだけ」
老人は、お茶をすすった。
「でも、名前が二つあるのは、悪いことばっかりじゃなかったよ」
「そうなんですか」
「戦争のときね。名簿が二つあったおかげで、うちの兄は召集を一回、逃れてる」
ハヅキは、湯呑みを持つ手を止めた。
「……本当ですか」
「本当。役所の人が、わざと直さなかったんだと思う」老人は言った。「あれは、間違いじゃなくて、誰かが残してくれたんだと思ってる」
三人目。江戸川区。三十一歳。
「うち、双子なんですよ」
「双子」
「はい。私と、妹。同じ日に、同じ役所に出したのに」
彼女は、二枚の書類を並べた。
「私が『かみや』で、妹が『かみたに』になってるんです」
「……同じ日に?」
「同じ窓口です。書いた人が、途中で変えたんだと思う」
ハヅキは、その二枚を見つめた。
「妹さん、なんて言ってます」
「面白がってます」彼女は笑った。「別々の名字だから、ホテル予約でバレないって」
「不謹慎ですね」
「ですよね」
二人で笑った。
「でも」彼女は言った。「たまに寂しいですよ。私と妹の名前、機械の中では、他人なんです」
六人目。中野区。四十五歳。
この人は、怒っていた。
「あんたたちが決めたんだろう」
「はい」
「じゃあ責任取れよ」
「取ります」
「取れるのか」
「わかりません」ハヅキは言った。「でも、聞きに来ました」
男は、しばらく黙った。
「……聞きに来たやつは、あんたが初めてだ」
「そうですか」
「三十年、誰も来なかった」
男は、煙草に火をつけた。
「うちは『やまざき』だ。ずっとそうだ。だけど戸籍が『やまさき』でな。会社の名札は『やまさき』だ。二十年、間違った名前で呼ばれてる」
「訂正しなかったんですか」
「したよ。何回も」男は煙を吐いた。「そのたびに、書類が要る。金が要る。時間が要る。それで、疲れた」
男は、灰皿に灰を落とした。
「疲れて、諦めたやつのことも、あんた、数えてるか」
ハヅキは、頷いた。
「一万二千八百四十一人、数えました」
男の手が、止まった。
「そんなにいるのか」
「います」
男は、長いこと煙草を見ていた。
「……そうか」
そして、小さく言った。
「じゃあ、俺、一人じゃなかったのか」
九人目。夜の十一時。品川区。
最後の一人は、二十歳の学生だった。
アパートの部屋は狭くて、本が積んであった。
「あの、僕、外国籍なんですけど」
「はい」
「母がフィリピン人で、父が日本人で。名字が二つあるんです」
「日本の名字と」
「はい。それで、日本の名字のほうも、読みが二つあって」
彼は、笑った。
「だから僕、名前が四つあるんですよ」
「四つ」
「四つです。どれが本当かって、たまに考えるんですけど」
彼は、天井を見た。
「全部本当なんじゃないかって、最近思ってて」
ハヅキは、その言葉を、メモした。
丁寧に、書いた。
「変ですかね」
「変じゃないです」
「そうですか」
「全然、変じゃないです」
帰り際、彼はドアのところで言った。
「あの」
「はい」
「僕の名前、消えるんですか」
ハヅキは、振り返った。
「消させません」
言ってしまってから、思った。
約束しちゃった。
でも、後悔はしなかった。
深夜二時。
会社に戻ると、フロアの電気がついていた。
御門が、机に向かっていた。
床に、ベンが転がって寝ていた。
「……ベン、行ったんですか」
「七十二人ぶん、電話をかけたらしい」御門は言った。「二十二人と話して、力尽きた」
ハヅキは、ベンに自分のコートをかけた。
「御門さん。資料は」
「できてる」
御門は、端末を回した。
そして、ハヅキは、息を止めた。