東京、十一月
試験会場は、大学の講義室だった。
蛍光灯の白い光。 どこへ行っても同じ色をしている光。 市役所と、図書館と、この部屋と——全部同じ光の下で、人間は何かを記入する。 麻衣はその光を見上げて、少しだけ笑いそうになった。
席についた。周りを見渡した。若い人が多かった。 二十代が中心だろうか。麻衣は三十二歳だった。 別に構わなかった。魂の年齢で言えば、この部屋で一番年上かもしれない、と思った。
問題用紙が配られた。
「始め」の声がした。
最初の問題を読んだ。行政法。条文の解釈。知っている。 次。憲法。基本的人権。知っている。 次。民法。契約の成立。
手が動いた。
頭が静かだった。不思議なほど静かだった。 緊張していないわけではなかった。でも静かだった。 長い時間をかけてここへ来た、という感覚があった。 試験勉強の時間だけではなく——もっと長い、言葉にできない時間を経て、この椅子に座っている。
問題を解きながら、麻衣は思った。
ネフェルウは百と七つの段を登って、歌った。 毎朝、同じ数を数えながら。それが準備だった。 麻衣も毎日、テキストを開いて、条文を読んだ。過去問を解いた。 形は違う。でも同じことだ。 知っていることを、正しく届けるための、準備。
マドレーヌは帳簿をつけた。数字を正確に記録した。それは間違いではなかった——ただ、数字だけを見ていたことが、足りなかった。 麻衣は書類を整える。数字だけでなく、その後ろにいる人間を見ながら。
セリーヌは聞いた。男たちの言葉を、ずっと聞いた。 でも自分の言葉を、言えなかった。 麻衣は今、答案用紙に書いている。 自分の言葉で、法律の言葉で、正確に。
試験の途中、一度だけ手が止まった。
記述式の問題だった。 申請者の権利について書け、という設問だった。
申請者の権利。
誰かが何かを選ぶとき、その選択が正しく世界に届く権利。
麻衣はペンを持ったまま、一秒だけ目を閉じた。
赤いカーテンが見えた。ナイルの緑が見えた。燭台の炎が見えた。雨の中で濡れた少年の目が見えた。図書館の白髪の男が見えた。パリのオペラ座の回廊で、手だけがつながっていたあの夜が見えた。
全部、一瞬だけ。
そして消えた。
麻衣はペンを動かした。書いた。申請者は、自らの意思に基づき——。
試験が終わった。
会場の外に出ると、冬の空気だった。 十一月の東京の空は、低くて、灰色で、でも今日は少しだけ光が透けていた。
スマートフォンを見た。颯太からメッセージが来ていた。
どうだった
麻衣は少し考えてから、返信した。
話せた気がする
颯太からすぐに返事が来た。
それでいい
麻衣はスマートフォンをしまった。 歩き始めた。 どこへ行くか、決めていなかった。 でも足は自然に動いた。
鞄の中に、名刺があった。Choisir.
選んだ、と麻衣は思った。
行政書士を選んだ。この街を選んだ。 颯太と親友でいることを選んだ。 画集を開くことを選んだ。 話すことを選んだ。
臓器を失った体で、前世の記憶を抱えて、それでも——選んだ。
それで十分だ、と思った。
今日のところは。